テストで正解するただ1つのコツ

2023年4月19日クイズ,メンタル,子育て,学校の勉強

ズバリ言いましょう。

出題者を信じないことに尽きる。

何それと思うかもしれないけど、これは東大合格している人もクイズ王も意識してか無意識にか別にすれば皆が実践していることだ。
というか、出題者を「真実を知っている人」と思っていても、運よく東大に合格する人はいるだろうけど、「出題者=神」と思ってすべての出題に正解を出そうとすると莫大な努力が必要になるのですよ。人の十倍勉強してやっとギリギリ受かったみたいな人はその口かもしれない。
一方で、スポーツもやって恋もして友達と遊びにも行って模試で満点取ってしまうような人は、おそらく「出題者は神」とは思っていないはず。そうでなければ要領よく勉強などできないと思う。


例えばクイズで、
世界一100m走が速い人は?
と聞かれて、
真実はというと、
「誰にもわからない」だ。

クイズの回答として用意されたものはだいたい、時代時代でカール・ルイスであったりウサイン・ボルトであったりするわけで、しかしそれは真実とは限らない。(引っ掛けクイズの場合は逆に「誰にもわかりません」が正解であることもあるし、最近はクイズの世界も厳密性に欠く問題は少なくなったようだ)
オリンピックに出ていないが恐ろしく足の速い人間が地球のどこかにいるかもしれないわけだ、『魁☆男塾』みたいに。

しかし、真実を答えるとバツを喰らう。
抗議しても、空気の読めないやつとして摘み出されるのがオチだ。

私くらいの歳になると、学生時代を思い出せば、学校の先生が黒板に書いたことのうち、現代では「間違い」になっていることがどれだけ多いかに気づく。
それ自体は悪いこととは言い切れない。

科学の歴史自体そういうものでもあるので、どんなに頑張っても一介の先生が100%正しいことを教えるなど無理なことだ。アイシュタインが先生でもだ。

加えて言えば、もともと真実の探求に大して頑張ってもない先生たちや、間違った方向に頑張ってしまっている先生たちがひとりもいないなんてまさか誰も思ってないよね?

テストの出題者だって同じこと。学校の先生が作るテストにしろ、全国模試にしろ、大学の入試にしろ、人間が作っている以上、正解として用意されているものが真実であるとは限らないのだ。こうして考えてみれば当たり前のことなのだが、学校教育の制度の歴史の中で「先生は正しい」「テストの解答は真理である」という洗脳を受けてきた親や子供は、なかなか気づかない場合も多いのかもしれない。

私がこのことに気づいたのは小学校の4年か5年の頃だ。

詳しい話は「国語のコツ」の記事を今度書くときに回すが、このことに気づいて以降、国語の文章題でバツをつけられることはほとんどなくなった。

好きになれなかった教科は別にして、つーか私の場合は大学受験用の模試でほぼ満点を取れたのは国語だけで後は悲惨なレベルだったけれども、少なくとも1教科でだけは実践してきたわけなので、どうぞ最後まで読んでくださいな。

子供にまず何を教えるべきか

自然界で生きていくためにだったら、自然界には絶対に曲がらない法則があり、それをより多く学んだ者が生き残るということと、食糧の獲得など具体的なサバイバル知識を教えればいい。

しかし人間社会では違う。

自然界の絶対的な法則でさえ、人間には正解が見つけられていない領域がある。
数学でさえもだ。

まして歴史など、私らは都市伝説レベルのでっち上げをさも史実のように教えられてきた。

それぞれの学問の専門家たちは、実験を繰り返し、文献を掘り起こし、命がけでフィールドワークを繰り返し、真実にたどり着こうとそれこそ血の滲む努力をしている人たちが昔も今も大勢いる。

だが、教科書を作っている人がそういう人だろうか。いやたぶん違う(断言はしないが)。
小中学校の先生たちがそういう人だろうか。中にはおられるかもしれないが、普通に考えて大半は違うと思うし、それは仕方ない、小中学校の教師は研究が本職ではない。

最先端の学者でさえすべてを知っているわけではないのに、学校の先生や教科書・テストの作成者がどれだけ真実を知っているか、想像してみれば誰でも察しがつくのに、なぜか、テストの正解は真実、先生の教えることは真実、という前提で学校も親も話が進んでしまうことがある。

この「ねじれ」を解消しないと何も進まない。解消せず、何も進まないままの子供たちは、悲しいことに勉強しても勉強してもテストの点が少ししか上がらないという泥沼にハマる。

オンラインゲームとか、したことあります?

戦略系のソシャゲ()をちょっとだけしばらくやったことがあるのだけど、ゲーム内で起こるアクションの確率とかを、自然法則にしたがった確率のように(ついつい)思い込んでプレーしている人がけっこういた。

():ソーシャル・ネットワーク・オンラインゲーム、つまり生身の人間のプレイヤーがそれぞれログインして、ゲーム内で協力したり対戦したりする。コンピュータプログラムだけが相手のゲームとは違って、他のプレイヤーの心理や行動を観察できるし、こちらから反応や働きかけもできる


いわゆる「ガチャ」などその最たるもの。

まあ、「10連」回したのに全然アイテムが出ねーとか言ってぼやくのは、感情的にわかる。私も初回だけは悪態をついたものだ、しかし冷静になればわかる。ソシャゲは会社の儲けのために存在する。しかもボロ儲けするために存在する。100回分課金しても1個も出ない、ということは、確率論ではあり得なくても、運営会社の心理からしたら十分にあり得る。


ああいうゲームは、プレイヤーがギリギリ楽しみながら必ず損をするようにできているので、そのことがわかっているプレイヤーは「運営」の意図を本気で読んで裏をかこうとして行動する。

「ゲーム」を信じるプレイヤーはカモ以外の何ものでもなく、
「運営」を信じるプレイヤーはいつまで経っても強くなれず、
「運営」の意図と塩梅をうまく読んだり、データを元に「管理者の行動を推測できる」プレイヤーが、無課金でも強い。

これはゲームに限らない。社会の真実だ。
受験も学校のテストも同じなのだ。

出題者の理解度、モチベーション、性格によって、用意されている「正回答」は違ってくる。

自然界に存在するものは、絶対不変の法則にしたがって動いているが、
社会に存在するものの多くは、「作った人間の都合」にしたがって動いているのだ。

このことを、子供が「学校」というものに通い始めたらいずれ教えておかなければならない。

小中学校、高等学校一般科の勉強は、形の上では学問の入り口のような体を成しているが、実際には入り口でさえ、ない。

学校の先生は学者じゃない。
学問の様式の片鱗を教えようとしている努力は、教科書や指導要領の中に垣間見られるようになってきたので、そこは評価したいと思っている。

しかし、あえて、子供たちがほぼほぼ受験というゴールにしか続かない道を走らされるこの国の小中高等学校教育の中で無駄に負け組になりたくない人のために、繰り返し言いたい。

もしテストで良い点を取りたいなら、「テストを作ったヤツ」の意図を全力で読み解いて答えを書けと。
真実を知りたかったら、学校などやめて社会や自然や専門分野に飛び込んだほうが近道である場合もあるのだから、「真実を小中学校教育に求めるな」ということ。

真実のありかによっては、大学に行かないと到達できない領域もあるので、その大学の入学試験というゲームを攻略するために、大学に入るまではテストで良い点をとり続けることもひとつの探求の道ではある。

もう一度言う。「テストの正解」と「真実」とは、同じではないことがままあるのだと割り切ること。

それは受験街道を効率よく進むのに絶対必要だし、
受験などどうでもいい、真実が知りたい、という純粋な子供たちにとっても、無駄にバツをつけられて嫌な気持ちになったり勉強が嫌いになったり知識欲や探求欲が削がれてしまわないために、この割り切りはあったほうがいい。

なんか疲れたのでアップする。不備があったらコメントくだちゃい。