「心を閉ざす術」で身を守る子供たち

2023年8月13日メンタル,子育て,家族道,心理学

思えば19歳の私は、最悪から2番目の最後の手段をとった。

当時の私。家庭という地獄で反乱を起こす1歩手前まできて、このままでは最悪の事態を招くと悟った。
家出した私を、のちに祖母は、「さすがおじいちゃんの孫やねぇ」と心から喜んで評してくれた。祖父は14歳で故郷どころか日本を離れると決意し、とある国で日本人初の海外留学生となった。が、私の場合は決して美談でない。それは自分が一番知っている。

解決策としては泥まみれ。血まみれよりはマシだったというに過ぎない。

今回最初にこんな話をするのには意味がある。

未熟な子供が生きるためには、また最悪の事態を避けるためには、人として非常にけしからん選択をしてしまうということだ。

十分に目を見開いて人生経験を積めば、そのけしからん選択を反省することもできるようになる。だが子供にそれ=より正しい判断を望む?
その資格が、いったいどの大人にあるというのだろう。

そこで本題、「心を閉ざす」という悲しい選択。

真に完璧な親などいないということは誰でも、私もわかっている。
だが、仮に完璧な大工が世の中にいないとして、だからといって金槌で人の頭しか叩けない大工を、大工と言っていいのか。

人類は、言葉を使って自己表現をする習性の生き物で、生後間もない頃から必死に言葉に反応し、学び、コミュニケーションをとろうとし始める。
進化論的にいうなら、欲しいものをより的確に要求できる子供と、その要求を的確に理解し応えられる親が、遺伝子を残してきたとも言える、狩猟採集時代までは。

(家父長制度が世界各地でできて、遺伝子の淘汰はおかしな方向に向かったと思われるが)農耕時代より遥かに長い、狩猟採集時代の進化の過程で、私たちの遺伝子には、

相互のコミュニケーションと思いやりの深さによって「大人になる」

というメカニズムが組み込まれてきたのだ。

ところが。

ボディランゲージも含めて「言葉」は、キャッチボールみたいなものだ。

投げたボールを取ってもらえない、投げ返してもらえない子供が、キャッチボールから何を学ぶというのか?

生物の中でも優れた学習本能を持って生まれた人間の子供は、否定的な状況からも「学ぶ」。

「この人には何を言っても無駄だ」
「人には、何を言っても無駄だ」
「本当の気持ちを言うと余計に怒られるだけ」
「本当でも嘘でも、ボールを投げると乱暴な球が返ってくる」
「本当でも嘘でも、ボールを投げると不機嫌に無視される」

学んだ子供は、心を閉ざし、ロボットみたいな社交辞令だけで相手を無視し返すことを身につける。
学べなかった子供は、意図せず(無意識的に)心を閉ざし、ロボットみたいな反応が身に染みつく。

学べても、学べなくても、心を閉ざす。

いったん心を閉ざした子供は、
ある者は心を閉ざしていることを巧妙に隠し、
ある者は隠すこともできず余計に怒られ、
時にある者は、心を閉ざしていることに気づいてもらえる可能性に賭けて、隠さない。
このあえて隠さない子の場合、あからさまに心を閉ざすことで自己表現をしている。それを感じ取る能力や余裕のない相手が多く、悲しいことにたいてい徒労に終わるが。ごくまれに、静かな叫びに気づいた相手が、地獄からの突破口を開いてくれる、ごくまれに。

「子供が心を開いてくれない」と訴える親

十中八九、親自身に原因があるのだが、子供が心を閉ざさざるを得ないような親は、指摘されてもそのことを認めないことが多い。

意固地に「自分は正しい」というエセ信念にすがり、いったい自分の何を守ろうとしているのか。子供を犠牲にしてまで。守るもの間違ってないか?

生き物として自己保存は確かに本能だが、子供が生まれると自己保存に勝る「子を守る」本能にスイッチが入るように、鳥類や哺乳類はプログラムされているはずなのだが。

例えば虐待されて育つ。理不尽に厳しく育てられる。空虚な形だけの「家族ごっこ」の中でごまかしに包まれて育つ。そうして育ってきた親たち。真に正しく「親の本能」さえ発現できない人たちがいることを、私のような年齢を重ねたオッサンは理解できる。あなたも被害者なのだよね。

でもさ、子供からしたら、「何歳だよオメエ」なのだ。
悲しいが、事実。
子供は、大人は大人だと思うさ自然に。
そして大人も、「ごめん私、実は精神ガキンチョなんだ」と誰も告白しない。

仕方ないさ、何歳になっても完璧な大人にはならないよ、なかなか。

でも、子供を授かったというご褒美を先にもらった時点で、「いつまでも100%ガキンチョじゃあかんやろ。これからは」と考えを改めなかったら、子育てはできない。教育など無理。
家畜みたいに寝床と餌だけやって育ててる気になるとか。
犬みたいに躾(しつけ)をして教育してる気になるとか。
人間という種は、言葉や心の交流で育つ生き物だというのに。

親がこのことに気づいてないと子供は、心を閉ざすしかなくなる。

急に子供ができて、急には大人になれないという悩みはあるだろう。ただ、すぐに改められないとしたって、どうすべきかくらいは知った上で悩もう、ということ。

心を閉ざして育った私は、考えることしか逃げ場がなかったので人一倍考えに考えてきた。いつもいつも考えていた。
どちらの気持ちも今ならわかる。

バカ親を責めたいとは思わない。責めても無駄だと知っているから。ただ自分のバカさに気づきさえすれば、それでいい。

私は四十を超えて子を授かったので、それまで散々自分のバカさを知る機会があった。それだけだ。何も偉くない。
偉そうに書いてるのは、子供の立場になってつい情が入っているからで。

もし自分が二十歳そこそこで子供を授かっていたら……と思うと恐ろしくて震えるくらい、自分のバカさを自覚している。