子育てのパラドックス?

メンタル,亡き妻のこと,子育て,家族道,運命

子育ては確かに本当に大変だが私には喜びしかなかった

今、たまたま猫の相手をしていたら随分前に買っていた本が目について、しおりのところから読んでみて暗くなった。

    子育てのストレス、子育てに人生を破壊されたという証言の数々。
(ただしまだ全部読んでないので全体の感想ではない)

    書いてある証言はひとつひとつ思い当たることがあり、どれも事実として否定できないものばかり。
    私も同じ体験をいくつも経て、娘を育てた。
    世の多くのお母さんがたがやっていることをほぼ全て、それこそよくある表現で「母乳を与えること以外すべて」やった。
    母乳を与えられないことが悔しいくらい、全部やりたくてやった。
    母親である妻ももちろん、たくさんの母親らしいことを尽くしたが、私たちは多くの保護犬猫を抱えていた上に裕福ではなかったので、妻は私と交代で日銭を稼ぎつつ、犬猫のケアに多忙だった。そして度々体を壊した。
    ので、私はほぼ始終娘を背中に背負って仕事も家事もやって、夜中は2、3時間おきに夜泣きで起き、娘が1歳の時に北海道に移住してからは夜明け方から起き出して馬たちの世話をした。さすがに娘が小さいうちは朝夜の馬の世話の時は家に寝かせていたが、犬の散歩もずっと娘と一緒だった。

 この生活でも、私は、子育てに関して非常に恵まれた環境だったと思っている。「非協力的な配偶者へのストレス」がゼロだったからだ。
妻は私にできることはすべて任せてくれたが、それは私も望んだことで、妻はいつも理解者であり相談相手であり、積極的により良い案を考えていた。

ほぼ同じことを経験しながら、私は日々神様と妻と娘に感謝していて、あの本に書いてあった人々は子育てを地獄と思っていた。そういう闇を知ってはいたが、改めて生の声を読むと衝撃だった。だから今書いている。

子育てを地獄にする要素はいくつもあるが、おそらく孤独と不安が大きいと思う。
配偶者の子育てを地獄にしている配偶者こそ地獄に落ちやがれと、世のストレスまみれの孤独なお母さん(お父さん)がたとともに叫びたい。

そういえばひとつ気になった表現があった。

「子育てに人生を壊された」と、証言者は語る。

私の妻の母親(三人の子を育てた)も、ある時、「ああ、私の貴重な30年を子供たちに奪われたわ」と言ったらしい。妻はずっと「奪われた」という言葉を気にしていた。
察するに、妻の父親は家族を養うために夜遅くまで技師の仕事をしていたそうで、古風な人で、義母の「孤独」を想像することはできる。実際は見てないのでわからない。
だから誰も責めるつもりはないが、私自身を振り返った時、世間と同じかそれ以上に子育てに全身全霊を注ぎ込んだ感のある自分だったが、「奪われた」などと思ったことは今の今でも一度もない。
そもそも私は妻と結婚してからは妻のために生まれてきたのだと思ったし、娘が生まれてからは妻と娘のために私のそれまでの人生はあったのだと悟った。

だからそれまでの人生で学んだことも体験したことも鍛えられたことも失敗したことも物理的に痛い思いをしたことも、すべて妻と娘のためにあったのだと思った。

つまり、誰に言われなくても私の人生は、「最初から」妻と娘に捧げられるべく存在したのだと、思っていたし今でも思っている。
そもそも私の人生など、失敗や間違いや勘違いだらけで大した人生でもない。
妻が死んだ時、娘と犬猫たちがいなかったら私もきっと後を追っていた。
私は自分のこんなチンケな人生を、愛する妻と娘のために生かせるなら、こんな幸福はないと思っていた。

じゃあ、人生を子供に奪われたとか壊されたとかいう人たちが、自分の人生を私の何百倍も高く評価しているかというと、たぶん、違うと思う。

人間も動物も、生命を脅かされると防衛本能が働く。
「不安」に苛まれると、どんな人生でも過剰に守ろうとする反応が自然と出る。出ない人や出過ぎてストレスが限界を超えた人は死んじゃう。

人生を壊されたと語る人々はほとんどが女性だが、彼女たちの幸福であるべき「子育て」を地獄に変えた人々は誰だったのか。

無駄なプレッシャーを与える親や親戚。生活費以外何も与えない夫。
子育ての大変さのせいじゃないんだよ。
子育てが大変なのは、スポーツの練習が大変なのと似てるくらいのものなのよ本来は。
でもそれを1人に強要し、文句ばかり言い、何ひとつ理解せず、肝心なところで何ひとつ手を貸さない人々。

そしてこれは先進国と言われる国ほど顕著なのもまた悲劇。
なんでこうなった。

と、いう感じで、暗澹たる気持ちは晴れないのだった。