「教育は基礎から正しく」という幻想

2023年1月27日これいらない,子育て,学校の勉強,言語

「最初だからこそ基礎の考え方を徹底する」病

これが文化傾向のひとつに過ぎないうちは「一派」で収まっていたかもしれないが、小学校教育にいまだにはびこり、実害が出ている以上、もはや「病気」というべきだ。

一見、
「最初の最初だからこそ基礎を徹底的に正しく身につけさせる」
というのは正しいような気がする。
もしかしたら、特殊技能や特殊な知識体系の世界ではそれが正しい場合もあるかもしれない。例えば、正しい順序を踏まないとその先が全く理解できないような世界。え?
例えばどんな?

最初は道具すら触らせてもらえない職人の世界?
いやいや。
昔の例えば石工職人の世界では確かに、ノミを手にするまでに下働きの時期があったりするが、それを根拠に「基礎から正しく」と想像するのは勘違いだ。
そもそも新入りが下働きだけさせられるのは、石工の基礎を教えられているのとは全然違う意味だ。
いざ、晴れて工房に入った見習いは、いきなり石を渡されて自力で彫らされる。「手取り足取り基礎から教わる」なんて段階はない。
それまでの下働き時代に職人さんの仕事を盗み見ていた殊勝な見習いでさえ、見様見真似のつもりでやってみても、当たり前だが全然彫れない。
「やってみてできない」から、そこから「できる人の技」を研究したり試行錯誤したり猛勉強したりが始まる。

芸術芸能の世界?
いやいや。
『風姿花伝』を読んでみなされ。

子供は最初はとにかく好きに真似事で遊ばせなさい。

とある。


どこに興味を持つかを見極めてそれぞれの子が楽しいと感じるところから伸ばしてやるべし。無理やり教え込むと、身に入らないばかりか、その世界全体を嫌いになってしまう。

うわめちゃくちゃ真理じゃん。
これこそ日本の伝統だったのに、どこで間違った?
先生たち見てます?

バイオリンやピアノでそういう「最初こそ正しく」教育がなされているかもしれないが、一方で、音楽学校どころか普通の学校に行ってるかもあやしいジプシーの人たちの中にバイオリンやピアノで超絶技巧を身につけているプレイヤーたちがいる。そういう人たちは確かに、国際的な権威あるコンクールで賞を取ることはまずないかもしれないが、だから何?

じゃあ聞きますが日本の子供がどれだけ算数オリンピックの上位を占めてるんでしょうか。

「基礎から正しい」幻想が日本の学校教育にはびこっている原因のひとつと考えられるのは、
「最初に間違った癖をつけてしまうと後から修正が難しい」という恐怖症かもしれない。

この「後から修正難しい」現象は普通、身体技能を伴う場合に起こる。顕著なのは箸の持ち方とか姿勢とか。中国拳法とか一部のスポーツとか、正しいフォームに必要な筋肉がないと変な癖がつくから最初に身体を作ってから初めて技を実践するとか。

あとは恐怖症の逆で、洗脳のほうが怖い。「正しいことを洗脳して何が悪い」とコダワリ先生たちは言うんだろうか。

知識学問に関していえば、何が正しいかなんて時代時代でコロコロ変わるわけでそれは数学でさえ例外でない(証明済みとかは別にして)。1+1=2が正しいことすら19世紀まで曖昧だった数学で、掛け算の順序にこだわるとかもう病気としか思えん。

正しいかどうか異論があることについて、どうしておおらかになれないのか。

太平洋戦争って終わったんだよね?

寛容さを持てないのって、もう十分空気あやしいんだよね。あ、そうなのか洗脳されてるのはそっちの人たち?

ていうかさ、その恐怖症のせいで子供たちに基礎を叩き込もうとして、結局トラウマ的に固定観念を植え付けて、応用力を奪っていることに気づいてほしい。掛け算の順序を洗脳レベルに遵守した結果、割り算ができなくなった私のように。

数学ってもともとさ、便利だからできたものでしょうが。
ギリシャの幾何学が発展する前に、エジプトで畑の面積を測りやすくするために知恵を絞ったのが先なわけよ。

言語だってそうだよ。
先に文法があるわけじゃないでしょ。文法なんて全部後付けじゃん。

なのに、学問として体系的に学んできてそっちの側面にどっぷり落ちた一部の先生たちは、基礎から教えようとするわけよ。ねーから基礎なんてもともと。便利が先なの。

掛け算にしろ割算にしろ、早く便利に答えが出る「わー便利」体験こそ大事なのよ子供にとって。
インド式計算とか先に教えちゃえばいいのよ。

結果、日本の子供は世界的に数学の成績悪いでしょうが。
世界の数学の成績の順位という「結果」が物語っているのに、なんで改めようとしないのか。無駄な「信念」をどっかで叩き込まれたから?

英語だって、「文法から教えるからいつまで経っても話せない」っつーのに気づくのに何十年かかったん。

『こんなに違う!アジアの算数・数学教育:日本・ベトナム・インドネシア・ミャンマー・ネパールの教科書を比較する』田中義隆 著

を読んだら「基礎の考え方を徹底する」とか言ってるのでなんかまた「んー違うだろう」と思ってしまったわけです。いや実は著者は掛け算順序騒動の件にも触れていて、くだんの抗議したお父さんを理論的には正しいと」言っておきながら、やっぱり小学校教育で最初に基礎を「徹底」理解させることに賛成っぽいんだよね。

「こんなに違う!」はいいけどさ、インドとかドイツとかフランスはどうなのよ。

比較するなら「デキる国」の教科書持ってきてよ!

と思ってしまったけど、はい、タイトルちゃんと見ないで借りてきた私が悪いです。ごめんなさい。

「基礎の徹底」って最初にやっちゃダメ

基礎を徹底するのは後なのよね。最初は体験と、そして「慣れ」なのよ。あとは何のために学びたいのってこと。これが修得の黄金律なのよ。プログラマーの人とか絶対私に同意すると思うんだけど。

英語だって結局、冠詞の使い方とか私も調べまくったけどさ、どんなに権威の文法書も「そう話されてきた習慣」を後付けで解説しているんだから(結局「例外」が次から次へと出てきたりする)。実際の会話の例を百も二百も千も聞いて反復してるうちに「そう言うのが普通だ」と感じられるようになるのが正義なのよね。10億人の英語話者はそうやって「理解」してるのが現実なのだし。

そして文法という基礎から教え込んでコンプレックスしか植え付けられなかった日本の英語の先生たち。