証明できないが事実だと知っていること
人間社会にさえいくらでもある「証明不能だが確かな事実」
せっかくなので、少し考えてもらおうかな。
少なくとも現在、証明することが不可能だが、誰か最低1人は事実を知っていること。
いくつ挙げられるだろうか。
改行を少し重ねて行を送ろう。
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どれくらい思いつきました?
んーとたくさん書いてみようと思ってたんだけど、ごめんね今わが家、まーうるさいことうるさいこと。せっかくの田舎暮らしなのだが都会から身内が引っ越してきましてな。記事がなかなか上げられないのも気力が削がれる毎日で。
まず今日はひとつ例を挙げればいいかな。
例:証拠・痕跡も目撃者も皆無の犯罪。
犯人だけは事実だと知っているが、誰にも証明はできない。
目撃者が何人かいたとしても、論理的証明や科学的証明にはならない。信じる根拠が増えるだけだ。
今回の話で何が言いたかったのかという本題は、私のプロフィールを見てくださっている方にはお分かりかと思う。
私は無神論者を敵とは思っていない。相手によっては仲良く楽しく会話もできると思っている。話が合うことも多々あると思う。特に政治的動機の宗教や悪習についての見解は意気投合できるとさえ思う。
だが、神がいないという主張にだけは同意しない。私は知っているから。証明はできないが。というと神秘体験を想像する人が多いとも思うがそうではない。グレッグ・イーガンの『祈りの海』とは根本的に違う。
(あれはとても美しい短編だから、そこから単純に無神論に直結しないでほしいと静かに願っている。グレッグ・イーガンは、他の作品を読んだ結果、無神論的立ち位置だと感じる。ところが『祈りの海』は逆に、神秘体験を神の根拠とすべきではないという点で私は作者に同意できる。こういう奇跡を通して、彼はSF作家の枠を超えて哲学的文学者であるなあと改めて思う)
私は日常的な体験と、一時は神さまが本当にいてくれているのかを疑ったこともある上で考え抜いた思考を経て、身をもって「それ」を知っていると言える。
頭の中で考え抜いて至った結論であると同時に何度も何度も「実証」を経験し、さらに理屈抜きで感じてもいるという側面もある。どちらだけでもないし両方の足し算でもない。この確信の結果は、不可知なるものを信じるというのも違う、「知っている」としか言いようがないのだ。
先の例で言えば、犯人は自分の犯行が事実だと「信じている」とか「確信している」とか言ったらめちゃくちゃ不自然でしょ。それと同じ感覚。「知っている」なの。
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