「ありがとう」は「有難う」でなく「難有う」だった

2023年5月4日文学,日本語

旧仮名遣いが駆逐された現代

まあ、普段遣いで効率を重視した表記をしようとするのは世界中で繰り返されていることで、いつの時代もそれを文学や母国語を愛する人々は「時代の流れ」と指をくわえて見てきたわけだが。

日本では、まず明治になった時、ひとつの亀裂が起きた。

明治時代前〜中期において、「若い」世代は、親世代やそれ以上の年齢の人たちを「旧時代の人々」と括って考えの古さなどを揶揄したらしい。血気盛んな若者が古い人間に苛立つ気持ちは私にも覚えがある。まして明治は何から何まで新しく生まれ変わろうとした時代であり、この革命まがいの亀裂は日本語にも変化をもたらした。(『日本語のミッシング・リンク』今野真二 著→記事最後にリンク)

ところが、若い世代でも教養のある人々はむしろ、旧時代の文化が失われゆくことに危機感を覚えもしたのだろう。新時代組の夏目漱石や、門下の芥川龍之介、内田百間なども漢語的な漢字遣いを好んでというか普通にというか、当たり前のように用いた。ただし、鴎外やそれ以前の作家に比べるとソフトになっていった。ちょうど過渡期にあって、ギリギリ漢語表現の豊かさを前向きに引きずった感じか。

この記事で言いたいことに直結する言葉でいえば、この時代までは少なくとも、

「ありがとう」「ありがたい」は「難有う」「難有い」と書かれた。

「髪長彦さん、難有う。この御恩は忘れません。

『犬と笛』芥川龍之介

「……人手が殖えることは難有いにも違いないがね。」

『玄鶴山房』芥川
龍之介

漢語としてはこの書き方が確かに正しい。

読み方はありがとうだが、漢字表記だけ漢語にしたがっていた。

芥川に関していえば、元の意味を失わないためだったと私は推測する。当時も、「漢文がわかる=教養がある」だったようなので、教養をひけらかすためにわざと漢文表現を用いる人もいたかもしれないが、一高(今の東大)首席卒業の芥川が頭いいのは誰でも知っていたのだし、子供向け的な作品(例えば『トロッコ』)にも同じ表記をしているので、彼に限ってひけらかしではないと信じる。

ただ、漢語教養が失われていく時代への反抗心がなかったかというと、逆にそっちはあったような気がしている。日本語の守り手としての自負を、作家であれば誰でも持っていた時代だと思うので、日本語の文化と共にあった漢語由来の言葉もまた、失われるべきでないと感じたのは彼に限ったことではなかったと思う。

失われても別にいいと思えば、現代のように平易にすればそれだけ読める人が増えて本も売れるのだからそうしたはずだが、昔は文芸雑誌にも同じ「日本語の守り手」たる自負があったのかもしれない。

さて、これを現代のように「有難(う)」と逆に書くと全然違う意味になってしまう。

Google翻訳で中国語→日本語でそれぞれ試してみるといい。

「難有」は「滅多にない」という意味だ。

難は困難という意味ではなく、日本語の難しいとほぼ同じ、「〜しにくい」という意味だ。これを「難あり」と読んではいけない。日本語的に読むときは(漢文でレ点って習ったように)有り・難しと読む。

仏教説話『盲亀(一眼亀)浮木』に基づき、「非常に稀なこと」、具体的には人間に生まれたこととか特定の誰かとの出会いとかを指して感謝する意味へ使われるようになった(と『涅槃経』系の出典をもとに仏教人が主張する)、「ありがたいことでございます」→「ありがとうございます」というありがとうと合致する。

大もとの由来が本当に仏教経典かはまだ私は調査中だが、「滅多にないことです」という意味に対する否定的な真っ当な言説を見たことはない(後述する嘘語源は文法的に間違っているので論外)。ので、文字通りの「ありがたい=稀である」が自然であるという見解を私はとる。

一方、

「有難」は「トラブルにみまわれている」という意味で、本家の中国人にとっては少なくともまったく違う意味だ。これを日本人が漢文的に読むなら、やはりレ点を挟んで「難あり」と読む。もちろん中国でも日本でも、これに感謝の意味はもともとない(「ありがとう」が「難が有る」からだという語源説はこじつけか間違い。文法的にありえない)。漢語を知らない現代日本人には区別がつかないのかもしれないが。(つったって日本語の熟語の大半は漢語なんだけどなぁ)

人に対して感謝の意を直接述べるのに、「トラブルでございます」とは誰も言わないはずだし実際、昔の日本人は誰も(そういう意味では)言わなかった。「難有いことです(なかなかない貴重なことですという意味)」と長らく表記されてきたからだ。

私が小学生の頃は、文学作品はその時代の仮名遣いだった

と思うんだが記憶は怪しい。

私は小学6年の頃に親友との出会いがもとで芥川龍之介にハマりまくり、文庫本で読める作品はほぼ全て読んだ。その流れで明治大正文学ブームに突入し、親友との間でも旧仮名遣いブームが起き、普段の会話でも「おもふ」とか「さうでせう」とか言ってゲラゲラ笑っていた。だから、旧仮名を文学経由で知ったことだけは間違いない。

その芥川作品の中で再三出てきて印象に残ったのが

「難有う」と「不相変」だった。

中でも前者の「難有う」は、ありがとうと読むのだと知っていても、わざと「がたありう」と心の中で読んで遊んでいた。だから、「漢文は動詞(有)の前に否定語や形容・修飾語(難)」というのが習うまでもなく身についていたし、日本語の熟語の構成も同じ具合のが多々あるのだと自然に思っていた。

確かに、文語は、現代語にどっぷり浸って育ってきた世代には、読みづらいのはわかる。

文語訳聖書とか、聖書の日本語訳として最も正確と言われているので持っているが、私も読んでいて軽くアドレナリンが出ることがある。(その点、平安鎌倉の古典を漢文表記のまま読むのは心休まる。なんでだ?)

芥川らの時代はもうすでに本気の文語ではなく過渡期の仮名遣いで書かれたものも多くあって、もっと前の世代になると本当に漢字だらけで痺れるものがあったりする。

旧仮名とか文語・古語とか、そりゃ読みづらいから日常的に使えとは言わないけれども、文学や芸術は「その時代」と一緒に味わうものなのだから、原文で読みたいし読んでほしい。現代語に勝手に直したらもうそれは翻訳であって原書ではない。

そして心ある出版社さん、あえて旧仮名遣い版をKindleなどで出してくださってるところがあるのは、私は嬉しい。紙のほうはまあ、残念だけどコスト的に仕方ないのかなぁ。

読者も、嘆かわしい時代の流れに文句ばかり言ってないで、採算度外視で頑張ってる人々を評価称賛宣伝することくらいは、頑張らにゃならんと思った。これから旧仮名遣いと現代語化の動向を私も追ってみようと思う。

文学を売る人々、買う人々、書く人々読む人々、日本語の守り手であってほしい。(残念な所業が辞書辞典にさえ存在するのを知っている。だからこその切なる願い)

電子書籍だけでもできる限りオリジナルを読めるようにしてほしい。それには、あえてオリジナルを買う・読みたがる人が必要だ。

現代語などは、ほっといても若者や若者向けのメディアが勝手に広めてくれちゃっているのだから、「時代を超えた文化の担い手」までが迎合する必要などどこにもないと私は思っている。