呟きから俳句へのプロセス
毎日、羊に抱きつく。天に感謝する。
娘は家から出ないが、楽しそうにしている。
天に感謝する。
けさも羊 首の匂ひぞ かたじけなき
娘いま 傍らに笑ふ かたじけなし
としてみたが。なんか違う。
けふもまた 羊いだきつ かたじけなし
やはりこのほうが元の呟きに近い。しかしもうひと声足りない気がする。
現代語の「羊に抱きつく」だけで脳内再現される「もふもふ感」が、「抱きつ」にはなぜ足りないのだろう。
「抱く」は対象が小さい感じがするからか。
「抱きつく」は自分と同じか自分より大きい対象にする動作だ。
となると古語では「かきつく」が近いのかな。
かたじけなし けふも羊に 掻きつかる
娘家にて 楽しげなるまた かたじけなし
追記
なんで「掻きつく」が「掻きつかる」になったかと。
単に5文字にするためではなく。それなら完了形でもよかった。
天に感謝していることに立ち返ると、羊に抱きつく行為そのものよりも、「それができること」に自分は心がキュンとしたのだと思い出す。
だから「可能」の助動詞「る」で結ぶ。未然形につくので活用は「掻きつか」になる。
そしてこの助動詞にはもうひとつ効用がある。「受身」にも用いられるのだ。
これは受験生泣かせの古文あるあるなのだが、この混用は詩歌の場合たいてい都合がいい。
「抱きつくことができる」幸せというのが本来の意味だが、「抱きつける」という表現が、もし「(羊から)抱きつかれる」という意味まで含んでいるとしたら、それは思いもよらない意味の層を加えてくれる。古語ならそれができる。
羊は確かに、人間に抱きつかれても動物的には何も得しないのだが、それを許してくれている。羊もまた、私を抱いてくれている、と、表現を模索して初めて気づく。
詩を書くことの醍醐味のひとつは、その過程で新しい事実や思いに気づくことでもある。
だからやめられない。
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