私たちは実はそれほど日本語を知らない

哲学,日本語,科学,言語

日本語教師や国語学者の人たちは別にして、と私などは言って差し支えないだろうけど。

だろうけど、実際のプロフェッショナルな日本語教師や国語学者の人たちのほうが、「ああ、まだまだ私は日本語を知らない」と日々痛感しているのではないかと思う。そこらへんで外国人の日本語力を無意識に見下している人々よりは(日本人の英語力を見下している英語ネイティブにも言えることだけど、まあ私含めて日本人の多くが不勉強なことも否定はしない)。

「知らない」ことを自覚した瞬間から、得られる莫大な「富」がある。

「知らないことを自覚する」と、素朴な疑問が次から次へと湧き出してくる。この「素朴な疑問」が値千金であることは、歴史が証明している。

「知ってる、知ってて当然、知ってなければならない」という思い込みがあると、浮かんでくる素朴な疑問を「テキトーな答え」でごまかし、次々と沈めてしまうのだ。

この思い込みを消さないと、上達の道もプロフェッショナルの道も早々に閉ざされてしまう。

日本語を真剣に学んでいる外国人は、まかりまちがっても「私は日本語をよく知ってる」などとは思わない。だから、素朴な疑問が油田のように日々吹き出していると思う。

一方、「自分は日本人だし普段の生活で日本語に困ったこととかないし、幾ら何でも外国人よりは日本語知ってるっしょ」と思い込んでいる日本人は、だいたいが今さら日本語をあえて学ぼうとしない。学ぶ必要を感じない。学ばない人の語学力が上達することももはや無い。
せっかく素朴な疑問に出会う幸運に恵まれても、「まあ、それはこれこれなんじゃない?」と感覚だけで「テキトーな答え」を出してそれ以上何も学ばない。

別に、母国語を学ぶ暇がない人を責めているのではないです。それは世界中にいるしそれぞれに事情があると思う。

ただ、「自分は母国語さえ全然知らない」と思うことは誰でもできる。今すぐできる。

「自分は何も知らない」と知る、いわゆる無知の知を示したとされるソクラテスが、なぜ今も哲学の巨人と語り継がれるのか。

「無知の知」をただ受験用語や一般教養として暗記するのをやめてみよう。

私たちは「無知の知」さえ実はよくわかってない。

それでも分厚い知の壁を破り、頭の中に噴水のように湧き出る源泉を得る簡単な一歩がある。
「私はまだまだ全然知らない、わかってない」
とはっきり認める、ただそれだけでいいのだ。