「仕事」と「労働」は違う。一生奴隷でもない限り。

これいらない,スローライフハック,動植物,富の知,経済知っ得

百年前に資本主義経済の発展に多大な貢献をしたケインズがすでに、未来において「労働」は極小値へ減じていくしそれが理想であると説いた(彼の理想が実現するには百年では足りなかったが)。
つまり、資本主義を掲げて発展を目指してきた戦後日本もまた、「労働」を賛美している暇も理屈も本来あり得なかった、はずなのに、なぜか共産主義国よろしく労働美化が謳われてきた。

「仕事」は生き物にとって必要不可欠だ。
ミジンコでさえ仕事はするし、しないと生きていけない。

実は、資本主義に限らず、仕事のための体力消費が生命維持活動をしのぐと死んでしまうというのは、生命原理の基本中の基本だ。

だから草食動物は移動距離が食事量を上回らないように食べ続けるし、肉食動物は狩りの時以外はひたすら寝る。それができない個体は早々に死に、大半の個体がその原理を守れなかった種族は滅びてきた。

仕事のための体力消費。これがいわゆる「労働」の一面の真実なのだから、個人にとって少ないに越したことがないのは言うまでもない。そして社会経済にとっても本来は、少ないに越したことはない。経済的に繁栄を持続したければ、大事なのは、全ての人が何を「仕事」とするかであって、「労働」機会を増やすことでも労働者を増やすことでもない。

労働は「コスト」なのだ。
少ないほうがいいに決まっている。動物たちは何万年も何億年も前からそのことを知っている。「労働」そのものを美化している酔狂な生物は人類だけだ。

「労働機会が減ったら失業するじゃないか」と、ここまで読んでもまだ言う人は、本当に目を覚ましてほしい。

労働が減れば暇になり、欲望の尽きない人類社会には次々と「需要」が生まれる。新しい需要が創出されれば新しい仕事が生まれる。今までの経済史もその繰り返しだった。新しい需要にいち早く気づいた人が新しい仕事を生み出してきた。そこを嗅ぎつけて集まりぶら下がってきた人たちもまあ、賢いっちゃ賢かった。

愚かなのは、ぶら下がった木が腐っているのに手を離さないで文句ばかり言う人たちだった。

こういう話をするからには言っておくべきだろうが、私は古き良きものを一掃したいわけではない。
テクノロジーには必ず弱点と依存基盤があるので、例えば「電気が使えなくなったら」みたいな代替手段としてのローテクもまた人類は失うべきではないと思っている。この辺、スローライフの醍醐味に通じる。


誤解しないでほしいのだが、ローテク=非効率では決してない。
歴史あるローテクはむしろ、理にかなっていて、無駄が削ぎ落とされ、依存するものが極力少ない点で優れているものも少なくない。一定量より作業量が増えるとハイテクより時間がかかるのは確かだが、コスト面で計算するとハイテクに勝る場合もある。

電動鉛筆削り機しか持っていなくて停電時に鉛筆を削るために車のエンジンをかけて発電する人と、ナイフでサクッと削ってしまう人と、比べてみれば良い。

社会経済もまた、私は、単純に発展すればいいと思っているわけではない、が、「無駄=コスト」に依存してお金を産み出そうなどという幼稚な経済活動を支持する気はさらさらない。

需要に対して供給する。それが経済の基本のはずだ。
供給側に無駄が多いと、価格が無駄に上がる。
無駄が少なければ、貧しい人々も「需要」を安く満たすことができる。
最低限必要なものが安く手に入れば、比較的貧しい人でさえ貯金ができる。
その貯金の使い道が新たな需要を創出する。

「無駄」に依存する経済活動が、いかに幼稚で悪循環の源か。

社会を無駄に非効率にしておいて無駄なコストを生み出し無駄な労働でコストを処理し対価を得よう、という構造がどれだけの歪みとストレスを生み出してきたのか、21世紀を生きる我々は考えるべきだ。

これでもまだ、労働による報酬を得るためには無駄も必要だと言う人は、つまり、「医者が食べていくために病気は必要だ」と言ってるのと同じだと自覚した上で言うべきだ。

「仮に世界から病気がなくなっても医者の仕事はなくならない」

ということが分かる人は、少なくとも起業家に向いているし、会社など起こさなくても食いっぱぐれることはなかろうと思う。