老子に「何もしないのがベスト」とある意味〈無為にして為さざる無し〉
道常無為、而無不為〈道は常に無為にして、而も為さざる無し〉37章
何もしなくても時間は過ぎるというのはご存知の通り。
時間が過ぎるということは、何もしなくても歩いてはいるということ。
そこであなたに聞くけど。
山道を歩いててさ、
霧が深くて視界がせいぜい5メートルってところで、あなたは全速力で走れる?
たいていの人は怖くて無理さね、それが正解だし。
中には全速力で走れと言われて本気で走る阿呆もいるかもしれない。
そんな阿呆が「道」を外れてることに気がついた時には、崖下へ真っ逆さまよ。
私は何を隠そう阿呆だったのだけれども、人生突っ走って滑落しましたよ。生きてるのは神様のおかげってなもんですよ。
人生っつー登山でさ、突っ走れるほど視界がクリアなんてヤツ、いるんかね。
よくもまあ、霧の中を全速力で走れるもんだ。
え? 私? 私は幻を未来と錯覚しとったんだね。
懸命に生きるってさ、走るって意味じゃないんだよね。
登山で走る奴おらんでしょ。懸命に歩くわけよ。天候が崩れたり暗くなったら休むわけよ。
吹雪の中を強引に歩いてろくなことにはならんわけよ。
だから『老子』にも、
「無為にして而も(しかも)為さざる無し」
「何もしない=時の流れに順って一歩一歩進むだけでいながら、(その都度少しずつ視界が開けて)実現(すべきことの中で)しないことなどない」
とある。(こっちは48章)
未来も見えない人間風情が闇雲に走ってんじゃねーよと言われちまってるわけですな。
原書に忠実な文脈としては、
学者は知識を増大させていくが、
「道を修める者」は「日々損す=失う」、
みたいなニュアンス。
損すとは断捨離みたいなもの。
持ってないものは失いようがないので、最初から知識を積むなと言ってるわけでも、学者をクソだと言ってるわけでもない。が、いつの時代も似非学者はいるし、知識の多さを人徳の最終目的にしている人間を愚かだと言ってる節はある。
易経にもある通り、「損」は人徳的にポジティブな失い方で、例えば人に与えたり自然に還したりして(それは良い形で己に返ってもくるが、返ってくることを期待するのは浅はか)、逆に自分の空白な領域をふやすことは、「益」よりも富んでいることになる。
そうして不必要なものを削ぎ落としていった結果、無為(何も為さない)に至る。
無為の境地に至ると、結果、すべてが為される。もちろん余計なことは為されない、だからこそ為されるべきことだけがすべて為される。
「人間とはなんと余計なことばかり頑張っちゃって道を踏み外していることよ」
というのは『老子』全編を貫くテーマ。
これを時間の側面とともに解釈したのは私の勝手なのであるが、老子を何度も読んでテーマに照らしたら、むしろ「歩み」と無関係ではあり得ないと考えるに至った。老子で主張される思想の重要な柱である「道(Tao)」も、静止した世界観では到底理解できない。Taoがストリートやロードと同じでないのは明らかだが、歩んだり進んだりする例えや、「道=秩序である」といった解釈をもとに考えていけば、人間視点で「道(Tao)」をとらえるには時間軸は決して無視できない。
道を修める者というのは特別な修行者とは限らない。
凡夫でもくそヤロウでも実践できることを、老子は言っている。
愚かな人間でも、視界が5メートルでも、足もとに「道」が見えてくればそれに沿って歩けるから、どんな阿呆でも踏み外さないで進めるやろ、てことじゃない?
他人の背中も無闇に押すもんじゃないよね、山道で。こわ。
ところで『老子』は金谷治先生の注釈解説が詳細で秀逸で情報量的に満足。といって他の人のを全部読んだわけじゃないのですけど。私は書き下しと原文と注釈だけ読むので訳はあまり気にしてなくて、だからいろんな人の現代語訳も読んだことがありません。
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