丈夫と健康と長生きはそれぞれ別物。

2021年9月18日z-日の徒然,メンタル,亡き妻のこと,健康,運命

丈夫であることと寿命は実は関係ない

当たり前のことだが意識していない人が多い。
むしろ関係あると思い込んでいる人がきっと多い。
私自身、時々そのことを忘れる。

先に結論をいうと、
丈夫であるほうがいいに決まっているが

健康は、寿命を伸ばすためではなく、寿命尽きる日まで自分と周囲が余力を持って生きるための助けとして(のみ)意味がある

ということだ。

昨日まで元気だった人や動物が、突然様子がおかしくなってあっという間に死んでしまう。健康上の理由と全く関係なく命を失う人や動物がいる。それはたった今も世界中で起きている。誰の身にもいつ起きるかわからない。

一方で、病弱ながら平均以上に長生きする人も動物もたくさんある。余命数ヶ月と言われて数年も数十年も生きることだって実際にある。

妻は肋骨が痛いのは柵に押し付けた時に痛めたのだと思っていて、倒れる2週間前までは階段を自力で降りて、家にいる自分の馬を1人で誘導していた。痛がっているからには安静にさせるように細心の注意を払っていたけれど、救急車を呼んだその晩に余命3ヶ月と言われるとは妻も私も思いも依らなかった。

1年間の闘病の後、妻の寿命は尽きた。

話変えよう。

前世や来世を信じるかどうかは別にして、私は前世で

子供の頃にひどい貧困と飢餓に襲われた経験があると、

前世がわかるという人物から言われたことがある。

その瞬間、自分が思春期以降ずっと持ち続けてきた強迫観念に近い「食」への貪欲さは、飢餓への恐怖だったのかもしれんと理解した。そして独り暮らしを始めて何度となく貧困と飢えを体験しつつ、また耐えられてしまってきたのも何かの因果なのかとも思った。

余談だが、その前世告知体験以来、「現代日本に生きる今世の私は、少々食べなくても死にはせんのだ」と思うことで、「食べられる時に食べられるだけ食わないといかん」という強迫観念はプッツリと消え去った。

さらに余談だが、若い時分に大食いと(死なない程度の)飢えを両方何度も経験した

結果、食いだめと断食が特技のひとつになってしまった。

ある程度腹一杯食べれば24時間は楽にお茶だけで過ごせる。空腹感と食欲は完全に精神的な問題でしかないと、割り切ったので、ストレス解消に食べ過ぎることもあれば、2日くらい何も食べなくても腹の脂肪を見るだけで不安にはならない。
それはさておき。

繰り返すが人間も動物も、丈夫と寿命は関係ない。だから

丈夫だからといって心配いらない(当分死なない)わけじゃない。

病気や衰弱への耐性をもって「丈夫」とか健康とか普段言うけれども。
見方を変えれば、なかなか寿命が来ないだけで中身ボロボロということは実際あるので、気丈に生きているからといって「丈夫」と思ったらいけない。

少し深く思いを巡らせると、

中も外も心も体も本当に健康であるとしたら、

それは本当に幸福であり、大きな力であり、健康が損なわれている時よりも多くのことが楽に実行可能になる、ということである。

労せず健康な人は、自分を健康ならしめてくれている外的要因に感謝。努力の末に健康を維持している人であっても、成果を得られるほどに努力ができている環境と好機に感謝。