危うく鬱がぶり返しそうになった意外な原因

2023年5月22日グリーフケア,運命

昨日ね、プロフィールを書いたのです。今までなかなか手をつけてなかったので。
特に構成なども考えず、筆の向くままみたいな書き方で。


ほんで、やっぱ、避けて通れないところがあって。このブログでもグリーフケアというカテゴリがあって、妻の死に触れる記事はいくつかあるので、プロフィールにも書いた。たった3行とかだけど。
そしたら、ずいぶん大丈夫になったはずという予想を覆して、思いきし気分悪くなった。虚無感とか罪悪感とか無力感とかってやつが襲ってきた。

すみません、わざと日本語を崩してます。真面目に書き始めると、ずるずるとアリ地獄に引き込まれる感じがするの。

私は、東京にいた頃、自死未遂を繰り返す人、鬱、境界型〜と診断された人たちを相手に、カウンセリングをやってた。勉強も寝る間を惜しんで相当に積んだ。なんとか間違いだけはしないように。救えるなどとおこがましいことは考えず。

妻がこの世を去った時、私自身に鬱の大波が襲ってきた。知識を総動員して持ちこたえたが、それでも悪化した。死なずに済んでるだけ、対処は成功したのかもしれんけど。

そこからグリーフケアも学んだが、ずっと罪悪感の淵にどっぷり浸かっていたので、苦しみから逃げる気はさらさらなく、毎日のように死顔を思い出した。一生これを続けてもいいと思った。フラッシュバックなどいくらでも来いと思っていた。

だから意外なのだ。
記憶を封印した覚えもなく、あらゆる角度から妻の死と向き合ってきたと思っていたのだから、今になって新しい記憶などないと。
それが、たった3行、冷静に文章にした時、枯れたと思っていた沼から泥水が溢れてくるような感覚。

私はもう、精神的苦しみを苦しいとはほとんど思わなくなっているので、そうした「鬱」的な波をやり過ごすのは難しくない。だが、何もできなくなり、何もかも空虚になるという一連の心身の反応は、訪れた。

これが多感な十代の少年少女だったら、どうなっていただろうと。大人でも、ずっと気を張って走り続けてきた人だったら。目に見える挫折から目を背けて生きてきた人だったら。
何より恐ろしいのは、世間で、うんたら療法とかいって「今の自分の感情」を書き出させたりとかしていること。今の私がそれやったら確実に吐くわ。

昔からあるような、グループで体験を語り合う療法でさえ、不快感で耐えられずにリタイアする人は実際いる。不快感に気づいてリタイアできる人は幸運なほうで、治療だからと頑張って悪化した人も大勢いただろうと、今なら私は確信できる。

この記事で一番言いたいのは、治療やケア活動やカウンセリングの過程で不快感を無視しないでということ。不快感や違和感にいち早く気付いたら、自称専門家がなんと言おうと、自分で自分を守ってくださいということ。本当にケアできる人物なら、あなたが黙りこんでも、指示に従わなくても、そこから察して背中側からでも手助けができるはず。そこで決められた手順を強引に進めようとするような輩は、悪しき前時代の遺物か、マニュアル通りにしか動けない無能野郎です。


グリーフケアに絶対法則などひとつも確立されていないし、されるはずがないのだ。人それぞれまったく違う歯車が絡み合っているのだから。


「苦しいかもしれないが頑張って乗り越えれば治る」なんてことを言う人がいたら、絶対に信じてはいけない、と言いたい。「絶対に」などないと今言ったばかりだが、これだけは言うだけ言っておきたい。あとは最終的に誰を信じるかは自分次第だからこそ。


誰かに話を聞いてもらわないと耐えられないなら、ひとりで悩まず話だけすればいいかもしれない、でも相手を間違えると悪化することは、どうしてもあるものなのだ。私もかつてあった。親に、友人に、話したばっかりに激しい怒りや絶望を感じた。結果、自分しか信じられなかった。

自己否定の真っ只中で、どうしようもない自分自身しか頼れないという現実に、絶望する人もいるだろう。よくよくわかる。察して余りある。

しかし私はかつての鬱の只中でひとつ学んだ。どんなに情けなく憎たらしく不甲斐なくても、自分自身は、少なくとも「この苦しみ」を世界一知っているただひとりの人間なのだから。信じていいのだよ。