いつ大掃除したっていいのにと自分でモヤモヤ、そして何やら話デカくなる

2021年12月25日z-日の徒然,サスティナブル,スローライフハック

大掃除=年末、年末大掃除、になぜ私はそこまで言う、気分よく新年迎えられるからと好きで大掃除してる人は気分わるかったんじゃないかと、自分で書いといて自分でモヤモヤしてました。

あの記事を書いた直接の動機は、北海道の学校で12月の終業式の日に大掃除をやっていたことが発端。娘も「最後の日にやんなくてもいいのに」と言い、そもそも日本の伝統的には大晦日にバタバタするのを避けて30日や28日までに掃除や正月飾りを済ませることになっているのだからせめて終業式前日にやればいいよねという話になり、「というか真冬に大掃除とか寒かろうに」と。

そしてこの数ヶ月や数年の間に旧態依然なナアナア行政にため息つくことが度々あって、それこそ自分のことを棚に上げて、大掃除を槍玉に挙げたのだろうおそらく。

言い過ぎた感が自己モヤモヤの中心だと思う。目的が別にあって必要以上に攻撃的になるのをすなわち「調子に乗る」というわけだから、それは自分が非常に嫌う行為だ。

とはいえ、改めて「これ必要?」と何でも見直す姿勢が大事という考えは変わらないし、だからと言って、何でもかんでも「必要性がすぐに思いつかない」だけで安易に切り捨てて良いとも思わない。「昔ながら」の道具や手順の中に私が守り続けたいものもたくさんある。

振り返ってあの記事は図らずも最後の部分が本意に収束したようで、
「大切にしたい(古い)ものを守り続けるためにも、もはや意味をなさない無駄な負担は削っていこう、時間もエネルギーも有限なのだから」
というところはこれからも主張していきたいと思う。

と、まとまりそうなところでさらに自己ツッコミ入れると、
「何が守るべきもので、何が無駄なのか」
の判断こそが最も難しいのよね。

昭和40年代初頭、日本の農村部で何が起きたか。

それまで馬を使って生活していた人たちが一斉にトラクターに切り替えたという。農耕馬の大半は姿を消し(つまり……そういうこと)、馬具もぱったり作られなくなる。

こういう短期間に一斉に切り替えられてしまう現象は、世界中で起きてきたことで、今も繰り返されている。

機械紡糸が登場すると世界中で一斉に手つむぎをしなくなった。

新しい家電が普及価格になる時、人々は「一斉に」古いものを捨て去る。古いものは売れないので作られなくなる。奇特な一個人が「一斉に」に逆らって守ろうとしても、その「古いもの」はもう店で普通には買えなくなっている。

私のスローライフに欠かせない伐採斧、西洋大鎌、板ナタ、どれも日本では市販品は作られておらず(したがって売られてもない)、新品は海外からしか手に入らない。

職人の国、モノつくりの国、だったはずの日本。

全く売れないものは誰も作らないのは当然といえば当然なので、たぶん、作り手が作らないのが悪いのではなく、「一斉に」誰も使わなくなり、見向きもしなくなるこの国のあっさり体質が、突出してるのかもしれない。海外では先進国でも今でも古い道具を作ってるのだから、その国では少数であれ採算取れる程度には売れてる、つまり使い続けてる人たちが市場を維持する程度にまだいるということだよね。

アメリカは間違いなく先進国だが、「斧」は各種、大木を倒せる伐採用から両刃(これはもともとアメリカならでは)から薪割り槌まで、今でも作られ手ごろな価格で販売されている。北欧でもそうだ。しかし、国土の8割が森林であり総人口が1億を超える森林大国の日本では、薪割りにも使える程度の枝打ち用の限られた斧と手斧しか作られていない(一応、今も作り続けてくださっている一部の工房・職人さんの名誉のために書いておくと、枝打ち用の国産斧でもモノはいいのでおそらく木を倒すことはできると思う。ただそういう用途は表向き説明されていない)。

あるいは、道具や手法を「文化」として継承しようという心意気が、「売れないもの作ってどうすんの」という声に負けた、負けやすい国だという見方もあるのだろうか。

日本が意地で守っているものは結局、いかにも「日本らしい」と「大多数の大衆が」思っているものでしかない。

着物や焼き物が守り続けられている一方で、千年以上の歴史を紡いできた木挽き職人がいなくなってしまう。大鋸も大鎌も作られなくなる。それは「市場」の敗北のせいに他ならない。国産木材とそのクオリティに対する需要が激減し、安くて便利な輸入木材に消費者と業者が「一斉に乗り換える」。そこにバランス感覚などはなく、本当に良いものを見出す「眼」もな。あるのは大勢(たいせい)に乗り遅れまいとする強迫観念だけ。要するに国民そろって「余裕がない」のだ。

もう21世紀も序盤を過ぎたというのに、私たちはいつまで半世紀前の高度成長期を引きずっていくのだろう。

狂乱の熱はとっくに覚めて不況になっているのに、今度は不況への漠然とした不安によって「乗り遅れると不幸になる」という強迫観念だけが亡霊のようにつきまとっている。

古いものを愛する私が、なぜ、「無意味な惰性的慣習」に苛立ち、新しい発想を欲するか、根っこの一部はその辺にあるのかもしれない。