かけ算の式で「前後逆を不正解とする問題(掛け算の順序問題)」の面倒回避策

2022年1月8日哲学,子育て,学校の勉強,科学

あとで、または先に、こちらの記事も読んでもらえるといいかもしれません。↓

大して役に立たん概念より、実用的な法則を早く教えようよ

かけ算には、a×b=b×aのように、前後を入れ替えても答えが同じという現実の計算時に非常に便利な法則がある(交換法則)。「計算が速い」ことはサバイバル的にも社会的にも強力な武器になるので、小さな子供にこそさっさと教えて身につけてしまうほうがいいと私は思う。

が、学校教育界には変なとこにこだわる性格(もしくは精神状態)の人が少なからずいて、国が「どっちでもいい」と言ってるにもかかわらず、「最初だからこそ、かけ算の概念をしっかり身につけさせねばならない」ともっともな理由をつけて

執拗に「許可なく交換法則を用いた生徒の答案にバツをつける」先生方がいるらしい。

「a人にb個ずつ配るといくつ必要か、式に表してから計算しなさい」

という算数の問題。

子供の「最初」を言うなら、数論的な概念こそ大人でも時に難しく、算術のほうがよほど簡単なのだから先に「計算ラクチン」体験を身につけさせるほうがいい。理科だって小さな子供に理論叩き込むより、まず観察や実験して後で説明したほうがいいっしょ。

それこそa×bのaが何、bが何、とかっていうの自体、考えようでどうにでもなる程度のことで「概念」とか大層な話でもない。「b個がa人ぶん」とかいう「考え方」にやたらとこだわる人が一定数いるが、後述するように「aがb回ぶん」で全く問題ないのでそれこそ算術では根本的に「交換可能な概念」なのだ。数論的に交換法則の問題を論じる分野はある、が、どれだけの小学校教師がそんな数論的な概念を理解しているか怪しい。数列持ち出すのもナンセンス。数列習う頃には秒で頭切り替えられる(切り替え効かない頭で数列を理解できるとでも?)。

単に、「a人にb個ずつなんだから、b×aでしょ!」という低次元の感情論でしかない。

本格的に数学者を引っ張り出してきてこの問題を論じようとすると、数論や教育論が入り乱れ、納得できない教師との間で結局平行線になるみたいでもある。

しかし、答案にバツをつけられた子供の親は、くだらない教師のこだわりで子供が悲しんだり数学嫌いになったりする「実害」に黙っているわけにいかない。黙っていられないのが親として当然だと思う。少なくとも、どんな問題であれ子供に回答の理由を聞いた上で、「先生がなんと言おうと、考えがあってあなたがそうして答えの数が合ってるなら、私はあなたのやり方をすごいと思う!」くらいのことは言っていいとおもう。

ともあれ、かけ算の交換法則問題は

このまま定説を作らないでおくと毎年毎年子供たちが泣いたり数学嫌いになっていってしまう。

そこで、私は逆の式は本当にあり得ないのかと考えてみた。(同じことを考えている人は世間にたくさんいると信じるがなかなかスッキリした言説をネットでも見つけられなかったので敢えて書いてみる)よく調べたら、とっくにありました。そりゃあるよね。でも万人が知ってるわけでもないと思うのでそのまま掲載します。

要は、a人にb個ずつ配ったことを式にする場合に、「b個がa人分」という認識を「認識式」「概念式」みたいなニュアンスで式にしてほしいわけだコダワリ先生たちは。そういう風に授業で何度も教えたにもかかわらず「ひっかけで逆にした問題文の順番にまんまと引っかかって安易に問題文通りに式を書いてきた(であろう)生徒」にバツという鉄槌を下したいわけだ。

コダワリ先生たちは絶対に、「概念認識をそのまま式にする」ことの必要性を譲ることはないだろう、今後も定年退職するまでずっとないだろう。

ならば、

問題文の解釈・認識のほうを逆でも問題なく成り立つようにすればいい。

a人にまず1個ずつ配ると、必要な個数はa個。
これ問題ないよね?コダワリ先生も。

で、a人にb個ずつ配るには、1個ずつの時の必要個数(つまりa個)のb倍必要。つまりa×b個。b×aでなく。なんか問題ある?

もちろんb×aと書いた子はそれはそれで何も間違ってない。

「いえ、式を逆に書いた生徒がそう考えたとは限らない!」
とコダワリ先生はこだわるだろうが、じゃあ聞くが、答案にバツをつける前に生徒に「ねえ君、これはどうしてa×bにしたの?」って尋ねたか?尋ねてないよね?絶対尋ねてないよね?

そこが一番の問題点だと思うのよ。コダワリ先生たちの根本的な。

自分の理想(と思い込んでいるコダワリ)に合致しない生徒の言動をヒステリックに否定するとこよ。

本当に人の道に外れるような生徒を身体張って導くとかならともかく、そんなんじゃないから、かけ算の式の順番とかは。いろいろな数論的見方ができるんだから。

極論するとさ、例えば「12+5=16、2+3=7、9+9=20」を全部満たす数論を構築することは理論的に可能なわけ(証明されている)。子供がものすごい天才で独自の数論体系を持っててそういう答えを出した可能性というのは、哲学的には否定できないわけさ。

だから教育ってコミュニケーションなわけでしょ。

「君、これはどういう計算でこんな答えになったんだい?」と尋ねて初めて、計算間違いなのか大天才なのかがわかるわけ。極論すればだけどね。

極論は置いとくとしてさ、コミュニケーションサボっといて決めつけで生徒否定するのを教育っていうの?って話なの。

「何十人も何十問もテストの採点してていちいち生徒に意図を尋ねる時間はありません」と言うのだろう。だから間違いとは言い切れない答案にまでバツをつけて勉強嫌いを育成するのが教育と。授業内テストはなんのためにあるのかを考えれば、答案を通じてやりとりしてみるとか、採点保留して次の授業で同じような答えを書いた生徒たちにそれぞれ聞いてみるとか、方法はいくらでもある。

生徒の理解度を確かめるのがテストなら、理解度が定かでない答案があればテスト以外の方法で理解度を確かめるのが「本来の目的」だと私は思うよ。