スローライフとは人生の時間を大切にすること

2022年4月19日s-スローライフ,スローライフハック,哲学,自然農法・採集生活

「大切にする」ということの意味は、よくよく考えなくてはならない。

貴金属を大切にするなら「劣化しないように保護する」のでいいだろうけれど、祖父から譲り受けたバイオリンを大切にする方法は、ひとつではない。

自分がまったく音楽に興味がないのであれば(そのままで祖父は哀しまないのであれば)、誰かその楽器を奏でるにふさわしい人物に譲り渡すその日まで「大切に」管理するだけでいいかもしれない。

押入れにしまいこんでカビだらけにするのは最悪。
理想的なのは、音楽とバイオリンを愛せる人がことあるごとに良い音色を奏で続けることじゃないかと思う。昔ながらの楽器は、上手に演奏して手入れを繰り返すことで、かえって質も価値も上がると言われる。が、一番重要なことは、楽器の資産価値が増すか劣化するかではない。

楽器は、音を奏でるために作られ、そのために存在している。

その楽器を「大切にする」ということは、楽器の存在意義を十分に生かすことではないだろうか。

精米されたお米の存在意義は、美味しく食べられることにあるとするなら、良い時に美味しく楽しく食べること、今がその時でないのならその時まで良い状態で維持すること。それがお米を「大切にする」ということ。
いざという時の蓄えといいながら腐らせてしまうのが最悪。庭に撒いてスズメに食べてもらったほうがどんなにか良い。

「大切にする」というのは、存在意義を全うさせること、とも言える。
良い時を待って良い状態を保つのがいい場合はあるけれど、それはその存在意義をフルに発揮できるその時に備えているだけで、「良い時に本来の姿でいたり本来の何かを果たす」ことに向かっている途中の、一時的なひとコマにすぎない。

では、「人生の時間を大切にする」とはどういうことか。

1分を惜しんでお金を稼ぐことでも勉強することでもない。だが、もっと大きな目的のために1分を惜しんで働いたり勉強するのが有効な時もある。
働くことも勉強することも息抜きも恋も、人生の時間の中の手段やひとコマではあるが、それ以上の何かではない。

自分にとって「人生の時間」は何のためにあるのか。

より大きな意義や目的と、手段や小さな目的の優先順位が混乱して本末転倒になるのを、古来、「不幸」という。

人生の時間は何のためにあるのかの答えは、私は私なりにわかってきた。50年かかった。

例えば家族のために仕事をしているなら、家族と仕事が同時に目の前であなたを求めている時、どちらをより大事に丁重に扱うべきかは明白なはずだ。それでも時に、目先の目的にとらわれて「もっと大切な存在」を邪険にしてしまいそうになる、あるいは実際にしてしまう、そして不幸の坂を転げ落ちていく。それが人間の背負った業かもしれないが、この業は人類の歴史が作り出した幻想でもある。だから捨てることはできる。捨てても生きていけるし、それは本当の幸福に近づける確実な道でもある。

人類が農耕を始めて、土地の所有を争い、死守した限られた土地でできるだけ多くの食糧を稼ぎ出さなければならなくなったその呪いから解き放たれるには、人間がもっと自由だった頃、リスクはあっても限りなく主体的に生きられただろう時代の精神を取り戻せばいい。脅迫されて追求する効率ではなく、自由と楽しみのために工夫する知恵。その結果と手段がスローライフじゃないのかな。

不確定なリスクから逃れるために効率を求め、その引き換えに別のリスクを背負い込んだことに気づかなかった人類、気づいても後戻りできなかった人類。後戻りできないなら、前進しながら、失われた自由を取り戻せばいい。それがスローライフハックだと思うのです。