問題:大晦日。「明日」と「来年」の違いは?

z-日の徒然,クイズ,グリーフケア,亡き妻のこと,,家族道,父と娘の会話

新年に思い入れを持てない私。

ケチをつけたいわけではない。正月新年は十分昔から立派な文化だ。文化の存在は大事だ。大好きな俳句の季語というか季語のカテゴリーでさえある。

世間が大晦日に近づくといろいろなことを手仕舞い、静かになって行き、初日の出を神々しく迎え、心新たに新年を迎える。悪い気はしない。情緒も「一応」感じる。

子供の頃、年賀状が楽しみだったし、初夢はどんなだろうと心ときめかせた。

しかし、その子供の頃、大晦日から正月というのはほぼ必ず家庭で過ごすことになった。親戚一同2日に祖父母の家に集まる習慣があったし初詣も毎年欠かさず出かけたが、家族単位で行動することは変わらない。前にも書いたが私は父親が恐怖だった。

四六時中怖がっていたというより潜在的にストレスの大きな緊張があった。子供らしい浅はかさのおかげで、父親の機嫌の良い時は表面的には忘れてその場を楽しむこともあった。父親も「子供のために」人一倍何かをしようとしていたので実際に家族の楽しかった思い出もある。が、「今はたぶん爆発しない爆弾」が常に脇に抱えられていた。子供にある選択は、忘れるか・思い出すかだった。

ここらで結論的な分析をやってしまうと、

家への嫌悪が、一般的に家単位が中心となる(家への帰属を思い知る)「お正月」なるものへ距離を生んでいたのかもしれない。

つまり父親と一緒に拘束される時間が恐怖で、そのせいで家が中心とならざるを得なかった年末から正月にどこか居心地の悪さを抱いていたのだ。

現在、自分が結婚して家庭を持ち、「家族」こそ人間にとって最も大切に思うべき単位だという信念を持ってもなお、子供の頃の記憶にある「家族」に愛情を感じられない。弟のことは本当に好きで大事に思っていた。母親も可哀想だと思っていたが恨んでもいた。父親に尊敬や畏敬や、おそらく愛情も愛着も感じていたかもしれないが、ストレスが子供の脳を一掃して行った。

年末や正月に楽しいこともたくさんあったはずだが、今あえて、世間が盛り上がれば盛り上がるほど白々しさを感じてしまう。これはまったく個人的な感覚なので、誰にわかってもらおうとも思わないが、今さら心から新年を祝おうとかも思えない。

どこかで一年の区切りをつける意味はあると思う。だがそれなら冬至や春分のほうがしっくりくると思ってしまい、なおさらとにかく別に太陽暦の1月1日でなくていいだろうと白けてしまう。

第一には、

子供時代の体験からの印象の問題に始まったのだろう。

きっかけ的には、正月に楽しみだったことがもともと大してなく、親が喧嘩したりしてイヤなことが多く、楽しみだったことさえ今となっては全然価値を感じられなくなってしまったのだと思う。

そして第二には、

人間社会の慣習よりも自然界の摂理に興味の重心が移ったせい

で、「人間が勝手に決めたこと」のうち、純粋に人として心にいい影響のある文化や自然に根ざした習俗や、生き物・自然視点でも価値を想像できることを別として、それ意外のほとんどにものすごく距離を感じるようになった。

もう25年以上前の私、西暦の元日に天文学的根拠がまったくないという知識を得て以来(歴史的に「ローマの慣習に従って定めた」という曖昧な記述しかないと読んだ、そのローマの慣習はもともとむしろ春分や冬至を重視していたはずなのにということも知った上で)、頭のどこかで「別に1月1日に大した意味はない」と思い続けてきたのもある。
結婚しても妻があまりクリスマスを祝わず元日に縁起を担がなかったのもある。
そしてダメ押しは妻を失った時、世界全体に価値を感じなくなった(パンドラの匣のように、娘だけが残った)。

一度全てが白々しくなった「世界」に対して、愛すべき存在、宇宙の秩序から順に、ゼロ〜「1」から改めて価値を再構築しているのだ私。今。

だから、

地球の公転とも何ら関係なく情緒的な謂れもない「区切り」である西暦の元日に対して、

まだまだ冷めた気持ちのままだ。
正月を一大文化として大事にしてきた日本人としての自覚には共感できるのだが、その「日本古来の正月」もまた西暦の元日ではないのだから。

私的になんか違う幻想を日本中が共有しているのを、外から眺める違和感。

大晦日の今日、とある予定について娘が

「明日になったら〇〇するね……明日は来年だ。明日と来年が同じだ」

私も大人なのでその「明日と来年が等しいことの妙」をこそ楽しむべきなのはわかる。十分わかる。娘のその情緒を喜ぶべきなのだろうと思う理性はある。

しかし私の心は、違和感を拭えない。

「明日」と「来年」の違い。私の感覚での違い。

「明日」は夜になって朝が来れば、生きとし生けるもの皆にとって「明日」。
「来年」は、西暦を採用してる人類社会にとってだけ「来年」。
つまらない大人になってしまったのだろうか私。

「明日」も、「0時をすぎたら」(って決まり)だよね

江戸時代までは日本人も「夜が明けたら明日」だったのよ