wikipediaは「参考文献」ではない
「参考文献:ウィキペディア」というギャグ(しかし実在もする)
一時期ネットで伝わった、笑い話があった。
何やらベンチャー企業の社長っぽい人が書いたある本を手に取り、巻末の参考文献ページを見ると、リストの全項目が「wikipedia」のタイトルとリンクURLだった、という話。
まともな人にはこれはれっきとした笑い話だったはず。中でも文筆業界の未来を憂う真面目な人にとっては不穏な新時代の兆候と映ったかもしれない。私は真面目な人ではないが、文明の危機をちょっと感じた。
私自身、実物を見たことがある。話題のそれと同じか、ほぼ類例である、「参考文献」がほぼ全て「wikilpediaのURL」という本を図書館で借りて読んだことがある。当然の如く内容があまり面白くなかったので、つらつらと読み進めて巻末を見た時、脱力したのを覚えている。その著者、上記の笑い話と同一人物か、似たような経歴の人物だった。
この体験はわりと確かな記憶で(著者名は秒で忘れたが)、借りた図書館も棚の位置も覚えている。一方で書名も忘却の彼方。ビブリアに保存してあるはずなので探し出すことはできるが、この記事はアホを晒すのが目的ではないので、「そんなヤツはこの世にいるはずがない、デマだ」と言い張りたい人がいた時だけ探すことにする。
ちなみに、「全参考文献がウィキペディア」という逸話は、2ch系まとめサイトでも目にしたことがあった(この数年そういうまとめサイト自体をひとつも閲覧しなくなったが)。ので、Googleで検索しても見つかるだろうしそのほうがきっと早い(私に問い合わせるより)。
なぜウィキペディアを「参考文献」としてはならないか
さて、タイトルを読んで「当たり前じゃん」と思う人は小ネタにしかならないかもしれないが、「えーどうして、ウィキだって結構参考になるし詳しく載ってるじゃん」という人は、心して読んでほしい。
Wikipedia(ウィキペディア)は確かに参考になることも多々あるが、
飲み屋で聞こえてくる常連さんの話し声
と変わらない。文献的、学術的に何かを述べたい人は、そう認識しなければならない。
納得いかない人は、だって考えてみてほしい。
Wikipediaの各ページ(データ)を、どこの誰が書いているか知っているか?
そりゃ知らないだろう、書き手はそれぞれ登録されてはいるが、大概はペンネームで、現実世界でどういう地位にいるかとかどういう知識をどこで習得したかなどのプロフィールを、必ず確認できるわけでもない。
つまり、「参考文献は何か」ときかれて「Wikipediaです」と答えるのは、
「新宿三丁目の飲み屋の常連のオッサンが言ってました」
と答えているのと本質的に変わらない。
信頼性の点で、正しいという保証はどこにもない。
Wikipediaの本質的な信頼度をかろうじて支えているのは、「根拠を示した資料の提示」である。
その次に、「もし嘘が書いてあったら世界中の誰かがそれに気づき、修正してくれるかもしれない」というウィキならではの面白い特徴が続く。が、これは全くもって何の「保証」でもないし、裏を返せば「Wikipediaは半永久的に校了することがなく未完成であり続ける」ということでもある。
校了していないということは出版前の下書き原稿と同じだ。いくら完成度が高かったとしても、未校了の原稿でしかも誰が書いたか知らない情報など、作家の下書き未満、かろうじて噂話以上の位置づけでしかない。それを論文や学術記事の参考文献に挙げることが、どれだけ非常識か、て話。
実際、とんでもないデマが書かれていることも現実に起きている(とんでもなくなくても、誤情報は常にあって更新や議論がなされている。それがウィキの長所でもあり短所でもある)。しかも数年から十数年にわたって大量の嘘ページが存在し続け、誰も修正しなかったという事件もあったらしい(GIGAZINEで読んだが当のページはもはやないはず)。
ウィキペディアでは度々、「記述に根拠となる参考資料が明示されていない」と警告がでているのを見たことがないだろうか。見てても気にしてない?意味がわからない?まあ、世の中そういう人がいても仕方ないだろう、本を出版したり人に自信満々で吹聴したりしないなら。
あれ、無視するクセがついている人は少し気をつけよう。
確証バイアスを通り越してカルト信仰に近くなっているかもしれない。「参考資料が明示されていない警告が出てても、ウィキペディアなのだからきっと正しいよね」と思ってしまっている人は、デマを拡散する拡声器になる素質を十分備えている(または一時的にそういう心理状態にある)。
参考資料が明示してあったって、事実かどうかを確かめる必要(責任)がある立場の人は、その参考資料を確認してからでないと、事実らしく断言、言及してはいけない。参考資料だっていい加減な本かもしれないし、全て事実が書かれている本とは限らない。
もちろん、エッセイ的なブログの他愛のない話題程度なら「ウィキで見たんだけど」でも問題ない場合も多々あるかもしれない。もともと趣旨や内容が、飲み屋の世間話の体だからだ。しかしそれでも、デマを広めていいということではない。少なくとも「ウィキには誰かが書いているけど、本当かどうかは確認してません」ということしか言えないはずだ、ということ。
大学のレポートで参考文献としてウィキのURLを書いてきた生徒には、レポートの書き方から教えなければならないし、すでに教えてあるなら厳重注意か落第させなければならない。
ちなみにもし私が大学教授だったら『広辞苑』など一般人が買えるレベルの国語辞書の類もアウトか厳重注意だ。(『日本国語大辞典』は普通買えないでしょという前提)
例えば広辞苑そのものは「いち著作物」であり、各語義を保証するものではない。引用や出典に書かれている文学作品などの書名こそが一次資料であり、参考文献だからだ(国語辞書の記述そのものが言及対象でない限り)。
Wikipediaの本来の活用方法
さて、しかし、ウィキペディアを大いに活用する方法はちゃんとある。
上にちょっと書いた広辞苑の場合と同じだ。
ちゃんとしたページであれば、ウィキの記述には逐一、参考図書や情報源が明示されているので、その図書や情報源をそれぞれ自分で調べるのである。
文筆屋や学者などしかるべき職業の人には当たり前すぎることで、わざわざ私がいうことではないのだが、先に書いたように自著の巻末に堂々とURLを載せたりする人間もまたいるので、知らん(わからん)人も確かにいるわけだ。だから書いてみた。
と、なぜ今、書く気になったかのきっかけは、
今読んでる、ロンドン大学の心理学者であり刑事事件の専門家であるジュリア・ショウさんの本の冒頭。
「過誤記憶」という用語が出てきたところ、引用します。
過誤記憶とは、起こっていないことを実際にあったかのように感じる記憶のこと。まるでサイエンスフィクションのようだが、過誤記憶はごくありふれたものだ。過誤記憶研究者エリザベス・ロフタスもこう語っている。記憶とは過去の正確な記録というより、ウィキペディアのページによく似ているーーそれは作り、作り直すことができる。あなたはそれにアクセスし、書き替えることができるが、それは他の人にもできる。
『悪について誰もが知るべき10の事実』ジュリア・ショウ著 訳:服部由美
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