行事や縁起物はシンプルなほど清々しい

これいらない,スローライフハック,やめて正解,,家事習慣,民俗学

と私は感じる。
私の育った昭和の時代は、正月から大晦日まで、ゴテゴテしすぎだったと感じている。
平成の大半は一人暮らしが続いたので知らないが、まあ世間を見る限りゴテゴテが継続していたと思う。
例えば正月の定番と言われてきた数々、あれを全部、今我が家でやれと言われたら絶対嫌だ。
全部やる意味がわからん。

初日の出を見て心洗われるのは私もわかる。だが人それぞれだろう。
大晦日の夜から出かけて初詣をする時の、禁断の夜の闇に集団で分け入るなんともいえない危うさが癖になる、というのもわかる。それはある程度「集団」だから味わえるというのもわかる。そういうのは実際、全国民の割合でいったら少数なので、自然発生的で悪くない。そしてその闇の儀式が実現するためには神社が大晦日の夜から巫女さんのバイトを雇って開けておいてくれる必要がある。
だから正月の行事を全て無くせというつもりはない。

だが多すぎじゃないか。「ない」と文句言うくせにお母さんがたに全部用意させるのも無意味に傲慢で嫌だ。貴族や武家でもない限り。貴族は暇で金を使うのが仕事だったからそれでよかったのだが、明治になって貴族の真似事が市場拡大に利用されてきたので、貧乏な家庭まで強迫されるがごとく飾り付けやらお節料理の用意やらをやらされてきたのは今振り返ると滑稽というか悲惨に見えてくる。江戸時代の武家は半分サラリーマンだったから、世間への対面でやってたのだとしたら現代に通じる哀感がある。

「それぞれの行事(やアイテム)に意味がある」と言う人もいるかもしれないが、それらの意味の起源はそれぞれいろいろなところから出てきたもので、全部やる必要も意味もない。

それどころか、ごもっともな御託や縁起が並べられていても実は「縁起物」と呼べる代物ですらなく、一商人の思いつき程度のものだろうと思われるのが大半だ。と思うよ。

恵方巻とか、福岡出身で東京暮らしの私にとっては「なにそれなんでみんなやってんの?」と(関東でまで盛んに喧伝されている事実が)グロテスクにしか思えなかった。

売る側が商魂たくましいのは結構だけど、乗せられるほうの人たちも少し選びなさいよと感じていた。が、今考えると、実は多くの人はそんなに真面目にやっちゃいなかったんだろうなとは思う。大量に余って廃棄されてたし、第一実際に誰かがやってるのを見たことはないしテレビでもさすがに放送禁止領域の行為だからか一度も見たことがなかった。コンビニとスーパーが空回りしてるだけならまあ、現代日本の消費者も選んでるんだなと思うけど、それにしても食べ物で遊ぶなや。遊ばせるなや。

私がここで言うまでもなく、令和の日本人はどんどんシンプルになってきてるんだとは、なんとなく思いますよ。もしそうなら良いことだが。

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我が家の正月らしいこと

そして我が家はというと、昨年は娘が「お節料理を食べてみたい」というので典型的な「おせち」をミニ重箱につめてみたけど「美味しかったけど、別にもういい」と(いう趣旨のことを)言ったので今年は無し。

年賀状も十年以上前から自分からは出さず7年前くらいから返事すら出さないようにしたら、ようやく私宛には個人的に誰からもこなくなった。娘の学校関係も小学校以来、来てない。仲良しの友達からも来てないみたいだから、みんなやめたんだろう。今年は娘がひとりだけ友達と年賀状を出し合うというので、地域の集まりのついでに郵便局まで送って行った。

それくらいだ。
「あけましておめでとう」とさえ言ってないし、正月飾りも一切してないし、お年玉もない。お小遣いは渡しているし、どうしても欲しいというものは買っているので、ケチで省いているわけではない。

うちでは、すべきだと思うことをすべきだと感じた時にする上に、常日頃から「これでいいんかな」と日常を省みているので、特段何かの行事にカコつける必要がないだけだ。

母の日や勤労感謝の日じゃないと感謝しないことが子供の頃から理不尽だと思っていたから、感謝や祝福は思ったらいつでも言葉や形にするし、プレゼントも思いついたらいつでもする。それだけのこと。

「お年玉でもなければお金を渡す機会がない」人は、正月を利用してお年玉を渡せばいい。
結局、縁起物と言われてきたものの大半は、言い訳の材料としてでっち上げてきたものではないかと私は感じてきた。あるシチュエーションに限って集団で公式にエクスキューズされないと、それをできない空気や社会秩序がある場合のためのものじゃないだろうか。

おせち料理なんてまさに、毎日年中無休で朝昼晩の食事を用意していた家人が大晦日と正月くらい休もうというのが真の「意味」だったはず。

年越し蕎麦だって、初詣のために深夜まで起きている人が小腹が空くために、低カロリーで洗い物も手間がない蕎麦は理にかなっていたのだと思う。しかし、「一年の終わりに蕎麦とはいかに」とかほざく無駄にウルサイ家父長がいたから(あるいはいかにも言いそうだから先回りで)、縁起が創作されたのだと私は考えている。

誕生日は「日」に意味があるし明らかに目出度いので祝う。

古くから「月の命日」に墓参りやささやかな行事をする人がいるが、あれは逆に良いと感じる。誕生日も『輪るピングドラム』のように(あれは実は複雑だが)毎月祝うのもいいと思う。

ともかく行事習慣に縛られないで迎える正月が、こんなに清々しいものかという実感。
何もしないほうが、静けさの中でかえって神妙な気持ちになったりする。

そして私は今年の元日から、毎日やろうと思ったことが5つあった。
なんだ、縁起担いでんじゃん、って?
そのうち4つは元日にやった。
二日目、全滅。
せめて1日おきに続くか否か、今日にかかっている。
モチベーションの道具にすらならない私の正月。
しかしど田舎暮らしとテレビ無しのおかげで、社会から道具を押し付けられない自由は満喫している。