頭悪い行為はあるが頭悪い人はいない

メンタル,哲学,心理学

ブッダの教えと言われていることを翻案した表題だが、よく考えてみれば確かにそうだ。

よく考えてみればと言わなければならないのは、普段、私(たち)は頭悪い「行為」を見た時、その行為の主が頭悪い「人」だと思いたいバイアス(思考や判断の偏り)が生じているからだ。

このバイアスは、ダニエル・カーネマンがエイモス・トヴェルスキーとともに明らかにした理論により顕在化した。いわゆる、「直観」とひとくくりにされていた判断の形態の、ある領域における正体だ。

(少なくとも)人は、手順を踏んで論理的に判断する場合と、よく言えば直観的、悪く言えば短絡的に、瞬間に判断する場合とがある。そして非常に多くの場合、特に短絡的判断は、間違っている(事実に反している)。ダニエル・カーネマンが著した『ファスト・アンド・スロー 』(日本語訳:上下巻)で語られているのは、ぶっちゃけて言うとそういう理論だ。

ある時代においては動物たちと同様に自然界で生きてきた人類。論理をすっ飛ばした(ように見える)ファストな判断にも正当な必要性があった。今でも無くなってはいない。

ところがある種の人たちはスローな思考が苦手で何でもかんでも短絡的に決めつける傾向があり、それが多くの場合、直観的な正しさとほぼ無縁である。それはそうだ、論理的にスローにじっくり考える「下地」や経験がなければ、練習してない野球のバッターみたいに空振りが多くなる。

始末の悪いことに、筋肉さえあればたまにヒットを打つこともある。
そこで思い上がると余計練習しなくなるという悪循環に陥る。

私たちの多くも、そういう「練習しないで自分を天才と思っているバッター」と同じ状態に陥る危険をはらんでいる。実際、しばしば同じようなことをついしでかしてしまう。短絡的思考は、別に正しくなくても死なないような社会においては「楽」で、当たると達成感もあるので中毒になってしまう。

だからと言って、そういう「人たち」をまた、頭悪い人や性格悪い人と決めつけると、その行為自体が「頭悪い」ブーメラン発言となって返ってくる。

誰かが「頭悪い人」かどうかなど、どうしてわかるのだろうか。

ちなみにこういう問いが「スロー」思考のひとつ。

私は自分自身が頭いいか悪いかもわからないが、頭悪い行為を数え切れないほどやってきたことだけはわかる。

かのアルバート・アインシュタインが専門分野でさえ結論を間違ったことがあるという事実は、多くの人が知っているが、アインシュタインが頭悪いと思っている人は多分ほとんどいない。

じゃあ、人を「頭悪い人」と言い放つ人は、何をもってその人を頭悪い人物だと決め付けているのか。答えはもう出ている。

「頭悪い」とその人自身が普段思っている思考回路、によってである。

「バカって言ったらお前がバカや」
というのが私の幼少期に流行ったが、つまりそれはある意味真実だった。

しかし、それでも、私も含めて多くの人が、赤の他人をつかまえて「頭悪い人」と言い放ちたくなる時がある。実際に公の場で言い放っている人が多数いるのでこれは確かだ。

それはなぜなのか。

短絡的思考は、時には(たまたま)正しい、そして正しかった時に脳内快楽物質がドバーッと放出されるからだ。

肉体的快感に負けてついやってしまいたくなるわけだ。
真に理性的な人は、独り言以外では言わないように気をつけている。
まあ理性的な人は、つい言ってしまうことがあって後悔する。

いつも平気で言っている人は、アルコール中毒と同じで、手に余るストレスを抱えているであろうことが察せられる。人を頭悪い人呼ばわりすることで安易にストレス解消しているのかもしれない。

しかし、「決めつけ」は必ずいつか間違う。ある種の数学体系でさえ決めつけられない矛盾をはらんでいるのだから、自然界や人間社会は例外だらけだ。

私たちにかろうじて分かるのは、ひとつひとつの行為が間違っているか、おそらく正しいか、それくらいだ。
論理的にスローに考えてやっと、行為の正しさや間違いが明らかになる、しかもなかなか100%正しいと言い切れない、それが現実だ。数千年の叡智をもってして言い切れるのはその程度だ。

だから、ブッダは、人をひとくくりに「どういう人」と決めつけるのはナンセンスだと2500年以上前に語ったのかもしれない。(もちろん、そのほかに、時間をまたいで連続的に存在するアイデンティティそのものを否定したという可能性もある)
あるいはその教えを受け継いできた人たちの中の優秀な人がブッダの死後数百年後にそう言ったのかもしれない(般若心経などみたいに)。