私はまさに「掛け算の順序」のせいで数学が遅れた

2022年6月9日i-知の富,これいらない,やめて正解,子育て,学校の勉強

※この問題に関していろいろ書いてしまい、至らなかったところも自分で感じてます。現時点で最新記事はこちらです☟(一応結論だけを先に示した簡潔な記事ですので、後ほど必要な論点整理をしてまとめをアップするつもりです)

その前に書いた具体案

「掛け算の順序問題」というのは、つまり

乗数=掛ける数と

被乗数=掛けられる数

を式において明確に設定させることにこだわり、なおかつただ1面の設定だけを押し付ける狂信的一派と、

入れ替えても成り立つ交換法則が証明されているのだし、どっちでもいいのになんでこだわるの?と感じるその他の自由派との間の、非常にめんどくさい無駄な対立のことです。

順序にこだわる狂信派は、同じ数ずつお皿に乗ったリンゴという「かたまり」が何皿あるかという「考え方=概念式」を、絶対にリンゴかけるお皿でなくてはならないと決めつけます。その中でも小学校の先生をしている先鋭部隊は、お皿かけるリンゴという考え方をした生徒の式にテストでバツをつけることで達成感を感じるようです。

父と娘のスローライフハック
掛け算順序こだわり派の図

掛け算の順序にこだわる狂信派の最大の言い分は、

「乗数と被乗数をはっきり叩き込まないと、掛け算の本質を理解しないまま」

「答えがあっていれば式はどうでもいいと思ったまま先に進んでしまう」

らしいですけど、フザケンナとはっきり言います。なぜなら、私はそのつまらんこだわりのせいで小学校中盤くらいまでは割と好きだった算数が、だんだんと遅れていったのです。中学の成績にも、高校受験にも悪影響を及ぼしました。

まず、乗数と被乗数は入れ替え可能です。それは商売をやってる人なら紀元前数世紀から誰でも知っていることで、掛け算の交換法則としても証明されています。

計算の時にだけ入れ替えていいのではなく、最初から入れ替えて式を立てていいのです。

概念としても入れ替え可能だということは、トランプを配る時のことを想像してもわかるし、こちらの記事でも書いてます。

そしてこの「入れ替えていい」を否定するのが「順序強制狂信派」ですが、私は、その狂信派が美徳としている「乗数と被乗数の理解」をめっちゃ忠実にマスターした結果、割り算でつまづきました

これは紛れもなく100%、「乗数と被乗数」の押し付けのせいです。

順序強制狂信派が掲げる大儀である「小学生の算数の理解を高める」に真っ向から対立する反証例が私自身です。

私が100万人に1人とかのひねくれた理解をしていたか、同じような感覚を持っている子供がたくさんいるかは、以下を読んでもらえれば明らかになると思います。

私がなぜ掛け算の順序にこだわったせいで割り算&数学で遅れたか

私は小学生の頃、乗数と被乗数という七面倒臭い概念を非常に忠実に自分に叩き込んで算数を理解していました。

まさに、掛け算の順序にこだわる人たちの掲げる理想の生徒でした。

その結果、割り算でつまづきました。

掛け算で順序にこだわる人がこだわる通りに、私は、

「4人の人にリンゴを3個ずつ配りました」は絶対に3かける4であると小学生の頃思っていました。

しかしこの後、割り算を習います。わかりやすいように上の問題と同じシチュエーションで話します(実際の授業も同じ例を使うことが多いみたい)

「12個のリンゴを4人で分けると、1人あたり何個になりますか」

これが割り算を最初に習う時の定番ですよね。

これが12割る4で答えが3というのは「順序にこだわっていた私」には容易にイメージできました。

しかし、です。割り算の本質はこの後にやってきます。

「12個のリンゴを3個ずつ配るとすると、何人に配れますか」

ここでガッツリこけました。

先生は何食わぬ顔で「12割る3」という式を私たちにお与えになられた。

しかし忠実な「順序教信者」だった小学生の私には電撃が走る。

「3は3個ずつの3でしょ?なんで3で割っていいの!?」

はい。掛け算の順序を厳格にマスターした小学生の私にとって、このリンゴ配りのシチュエーションでは3個のリンゴが、分割不可能なくらい堅固な「かたまり」であったのです。分解していいのは人数のほうだけじゃないか。なんだよ、「12割る3」って。

図でいうと、

掛け算の時にこうでないといけないと教えられたのだから、図を切り裂いていいのも同じ縦線だけだよね。そうだよね先生!

なのに何!?

なんで今さらしれーっと横に切ってんだよ。だったらあのメチャンコ重要と教えられた掛け算の順序はなんだったんだよ。もう算数なんて信じらんねーよバカヤロウ!

翌日から私は拾ったバイクにまたがり202号から生の松原を走り回りました(ここだけ嘘)

真面目に。本当の話です。(冗談の後でナンですが本当なのです)

私は、この、図でいうところの「横に切る」にずっと違和感が付きまといました。

割られる数が人数とか皿とかみたいに掛け算の時に「いくつぶん」と教えられた「グループの数」だった時だけすんなり割り算ができ、反対に、「何個のかたまりが…」と教えられた単位個数で割る場合は明らかに頭が混乱しました。

頭では等しく交換できるとわかった中学になってもなお、心のどこかで納得できておらず、しかも授業の算数数学はとっくに先に進んでおり、私はずっと重い足枷を引きずりながら計算問題を解くことになっていきます。

「計算さえなければ数学はどんなにか楽しいだろうなぁ」と思ったこともありました。

「そんな話初めて聞いたわ」という人も多いかもしれないけど、事実だし、私が特別に知能に柔軟性が欠ける子供だったかというと、多分それほどではなかったはずです。

私の知能に問題があったのではと疑う人のために自分の成績を書いてしまうと、私は高校受験時の公立の試験は数学以外4教科満点でした。数学だけ、志望校(当時、落としていいのは全教科中2〜3問までと言われていた)の合格発表まで不安で仕方なかったくらいにミスをしました。全て計算間違いです。

中学数学は、教科書に書いてあることはひと通り理解しましたけど、計算はずっとトラウマを抱えたようになっていて、時間をかければできるけれど非常に遅かったのです。何度も何度も自分の計算が合っているか確認しても、「でも間違っているかもしれない」という不安が計算に限って付きまといました。

今でも、中学の時に計算、特に割り算をする時に感じていた、明確な違和感を思い出せます。

掛け算の順序を押し付けたがる狂信派教師の言い訳のひとつに

「乗数と被乗数が身についていないと割り算の理解が遅れる」

というのもあるそうだけど逆だっつーの。乗数と被乗数の偏った教育が染み付いたせいで割り算が障害レベルでできなくなったんだってばさ。

ちょうどこの記事の画像のような、「かたまり」と「グループ」の概念が強烈すぎたのです。

私は明らかに、画像でいうところの「横で切る」に抵抗がありました。「横で切る割り算」になった途端、急に不安になる。それが連鎖的に引きずられて「計算遅い、計算苦手」と暗示が増幅し、計算全般に不安がつきまとうようになりました。上記のように、他教科は全く問題なく、数学も幾何学は大好きでした(例えば面積は縦かける横でも横かける縦でもイメージ同じだもんね。最近、これを「縦かける横」以外認めない教師がいるらしい噂を読んだけどそれ本当ならもう病気でしょ)。

ただ「式」が主体の数学になると、途端に苦手意識が湧いてきて萎縮するようになってました。

当時は、「計算だけがなぜか苦手」「計算の答えに自信が持てない。実際よく間違う(これは悪循環だというのもわかっている)」というところまでは自覚していました。

それが何故だったのか。

ずっと後になって、掛け算の順序、「かたまり」とグループの概念、「乗数と被乗数」の一面的なイメージが、唯一絶対的なベースとして頭に刻み込まれていたが為に、理解はしていても交換法則などにどこかで抵抗を感じていたのだとわかりました。

そのまた証拠に、私が二十代後半の頃に計算のトラウマをようやく克服したキッカケとなった、出来事があります。

それは、高専出身だった知人の発言です。

「計算問題好きだったな。法則に従ってただ機械的に上から解いてくだけだもんね。一番楽だった」

という言葉を聞いた瞬間。私の頭に

「計算は要領。便利は数学の真髄なり」という天の声が響いた気がしました。

そっか、それでいいんだ。

いいんだよねバリバリ理系の彼が言うんだもの。

今なら、どうして世界でインド人の数学の成績がずば抜けて、義務教育の徹底された日本人がショボチンなのかよく分かります。

計算の時は便利を駆使して機械に成り切ればよかったのに。

考え方とか概念とかにこだわって変な「型」を埋め込まれてしまい、決まった型にはまらない計算になると、ものすごくブレーキがかかっていた。

中学高校と「便利な」法則が続々登場しても、先生は証明までは時間を割いて教えてくれない(高校1年の数学教師はあからさまに「公式は暗記。ひたすら暗記」と言った。ちなみにその教師は生徒の大半から嫌われていたし実際いろいろな意味で全く有能ではなかった)。

結局概念的に納得できないから、納得できない公式の全てに拒絶反応があり、いつまでも使いこなせなかった。

なんだったんだろうあの「コダワリ」。

ほんと、なんなんです学者さんたちのそのつまらん自己満「コダワリ」。

でももう大丈夫、ク●ったれ「コダワリ」さようなら。

押し付けられた呪縛から解放されたその日から、本当にその日から、私は自分の「計算」に自信が持てるようになったのですわ。

この記事は本当の本当に、実話です。(生の松原の行以外)