神仏は個人を評価しない。

2022年5月10日お天道様,メンタル,哲学

ブッダの教えとして今に伝わるものの中に「存在そのものの良し悪しを判断しない」というのがあるという。

人間に対して

「評価をするな、そのもの自体の良し悪しにとらわれるな」

と言っているのだから、まして超越万能の神仏が人間を見ていちいち「君は良いね」「君は悪い」と言うはずがない。

それとは別に「ひとつひとつの行い」の善悪を「感じる」ことは否定しないし、そこにこそこの世界の意味がある。

この世界の全存在が神の被造物だとしたら、仮に神様が良い行いの人を人として良いというにしろ、悪い行いの人を人として悪いというにしろ、前者は「自己満足」後者は「自己否定」に帰結してしまう。そういうのは悟り前の人間が陥るもので、完全な創造主にはそもそもそんな動機すらあり得ない。

神様仏様は、「良い」や「美しい」現象を見て喜ぶ、ならおそらくある。この世界に存在意義があるとしたら、神様仏様が喜ぶためかもしれない。

だから逆もあるだろう。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の天上の仏様のように、悲しまれることもあるだろう。

人間も動物も、喜んだり悲しんだりするのは、自然な本性だし、そうするように作られていると思う。

一方、「良し悪しを評価」するのはおこがましい、といにしえの賢人は言われた。

大きいとか小さいとかは動物でも普通にする評価だし、短期的に自分を害するとか益するとか、長期的にはその逆だとか、その辺も知恵の範囲で生きるために必要な場合があるだろう。

これが「良し悪し」となると、意味がなくなる。今、不都合な存在が、ある時には好都合になるかもしれない。そのことをとっくの昔に言われていたのが有名な「人間万事塞翁が馬」でもある。

人間にとっても無駄で幻想で、賢い動物も単細胞生物も決してそんなことをしない、「良し悪しの評価」を神仏がするだろうか。この世界の生物の生死に関わる「自分にとって有益か害か」という判断ですら、不死で何者にも害されることのない神仏には、まったく必要のないものでは?

だから神様仏様は、人間の行いのひとつひとつに一喜一憂されることは「この世を作った楽しみ」としてなされるだろうけれども、人間ひとりをつかまえて良いとか悪いとかは一瞬たりとも思われないと、私は思う。

「神様はこの行いをどう思われるだろうか」はアリだが、

「神様は自分をどう思われるだろうか」はあり得ない。考えるだけ無駄。だと思う。

もし後者のような思いに悩まされた時のために、「神は万人を愛す」という言葉も伝わっているのだろう。

「私は善人でしょうか、悪人でしょうか」などと神に尋ねる暇があったら、ひとつでも善いことしてみたら、みたいな?(これは無神論者も完全同意だと思うんだけど)