算数の「式」はアートの一形態に過ぎない

2022年6月1日z-日の徒然,子育て,学校の勉強

と、無名の私がまた乱暴に言い放ってみます。

なんでこんなことを言うかというと、テストで正解とか間違いとか規制強制するほどの絶対的な価値は「算数」の式にはなかろうもん、と思うからです。

中学数学の方程式でさえ、例えば余計に面倒になるような式を用いた生徒に必要なのは強制や否定ではなく、会話やアドバイスだ。もし計算結果が合ってるなら、それはその子の「得意な思考法」なのかもしれないのだから、少なくとも丸をした上で特に気になる子だけ指導すれば(補助員や親に指導させても)いい。

このブログで過去に教師の気持ちもわかるという記事を書いたことがあるが、やはり改めて、教師の気持ちを優先して子供の能力の芽を摘むべきではないと思う。絶対に。

「私がこう書けと教えたのに、そう書いてないのは明らかに間違いでしょう?」

というのは間違いだ。

どう教えられようと、自分のやり方でやったほうがやりやすい

と思う子供や、

先生の教えは確かにまるっきり忘れたが、自分でなんとか考え出したらこうなった

という子供は、そのままひとまず肯定するほうが、ヒステリックにバツをつけるより何十倍も能力を伸ばせると私は確信している。子供の発達過程から人類学的進化までいろいろ先人の知を漁ってきてそう思う。

例えば。

10割る3は、3で余り1。

と授業でやったとする。

例を出して、10個のお菓子を3人で分けたら1人あたり3個で1余る、と皆で理解したその後。

じゃあ、20個のお菓子を3人で分けたら?

これを教科書的に解けば、20÷3=という式を書かせるだろう。

それはそれで何も問題はないし、それはそれでそれなりに早く解ける。

とはいえ、私はこの20÷3が長らく苦手だった。どうも直感的にしっくりこなかった。日本の教科書的に解けば、九九の3の段で当たりをつけて3×6=18だから3×7だと行き過ぎだとなって6(余り2)が答えとなる。しかし、体感的には、18よりも21のほうが明らかに20に近いので、わざわざ遠い6を答えとすることに今でも私は抵抗があるのだ(流石に現実世界ではケースバイケースということくらい分かっているが)。

だがそこに、こんな子供がいたとしたら?

さっき10個あったのが倍になったんだから、1人がもらえるのも余りも倍でしょ?

この子は式を書いてない。点数もらえないのだろうか。私が親なら「そんな点数トイレに捨てちまえ」と言えるけれど。

この子に必要なのは、

「じゃあ30個なら?」

という発展的な問いであって、先生の困り顔ではないはずだ。

こんな子がいてくれた幸運なこのクラスは、

2×(10)/3=2×(3)余り2×(1)

という考え方を試す機会が与えられたわけで、それを喜ぶべきだと思うのですよ。

で、3×(10)/3が割り切れてしまうことや、割り切れることを保留にしてみると余りが3になってしまう(つまり余らない)ことなどを体感的に知ることができるんじゃないか、それこそ小学校教育の醍醐味じゃないかと思うのです。

いや醍醐味はさておくとしても、教科書と違う発想の子を切り捨てないことだけは、外さないでほしいと願うのです。

ここで「ん〜でもそうじゃなくて」と言われてしまうとホント、算数嫌いになるから。

大人のあなたたち、嫌いな分野の本を無理やり覚えてこいって言われて覚えられる自信ある?

読むのも無理じゃないの?

て思うとですよ。

それこそが「能力への影響」なのです。

「嫌い」で能力超低下、むしろ理解・記憶することを拒絶するのが人間の本能なの。

好きにまでならなくても、興味を持った途端に新しい情報に敏感になって、いつの間にかハマっていたことあるでしょ?趣味の分野で特に。学問なんてぶっちゃけマニアの世界なのだから、感覚的には趣味と同じ。

好きでもない「何やらマニアックなもの」を、「受験に必要だから」という理由しか説明できない大人が子供に押し付けたって、どんどん拒絶するだけなのです。

「勉強できない子」ってつまり「勉強嫌いにさせられた子」でしかない。

「算数できない子」のほとんどは「算数嫌いにさせられた子」でしかない。

彼女ら彼らはバカじゃない。

大人の自己中や無神経を子供の能力差のせいにすんじゃねー。てことっすよ。