新年の「空気」があればあとは何もいらない
前回の話をまとめればそういうことだった。
今年の正月は本当に、日本文化が育ててきた新年の行事や飾りや挨拶から可能な限り自由になってみた。
「あけましておめでとう」さえ一度も言わなかった。
その結果、とても清々しく新年の息吹を感じた。
半世紀以上生きてきてこんな体験は初めてというくらい。
天文学的には何の意味もない1月1日だが、暦を用いて生きている限り、年が変わることの心理的影響は必ずある。その最もシンプルな核の「改まる空気」が、ど田舎の澄んだ空気と人工的な音が一切しないひと時の中で、冴え渡って私を包んだ気がしたのだ。
大げさに言うつもりはない。
実際、人生が変わるほどの感動や衝撃があったわけではない。
だがひとつ、確かなことがある。
「もう、戻れない」。
この澄んだ空気を二度と汚したくないと感じてしまったのだ。
もう、これから先、できることなら、人間社会が育んできた「正月らしい」文化のステレオタイプには一切関わりたくなくなってしまった。
例えばインスタとかで、それぞれの個人個人が新年のメッセージを投稿しているのは、見ててまったく大丈夫だった。ここにも何だか真理が見つかった気がする。
なぜ大丈夫だったかというと、私のインスタのフォロワーさんやフォロー先はほとんどフランス人で、しかし数少ない日本人も中国人も同様に、彼女ら彼らは、誰ひとりステレオタイプな新年の投稿をしなかったのだ。(大半が詩人やライターやアーティストつながりというのもあるかもしれないが、詩が趣味の普通の主婦らしい人も少なくない)
ひとりひとりが「Nouvel an」とか「Bonne année!」とか、コメントでも「Belle année!」とか挨拶を交わしていたけれど、ある人は花火であったり、ある人は皮肉たっぷりの日常の一コマであったり、なんか、自分の感性が求めるものだけでそれで全て、なのよね。
日本と欧米は正月の重要度が違うからとかじゃなくて、クリスマスも同じだった。
いやこれ、私のインスタつながりに限ってなのかインスタ全体なのかSNSコアな現代人全般なのか?
よく考えたらインスタのタイムライン、全世界的にクリスマスも正月もなんだか「平常運転」だったよ。
え、世の中とっくに変わってる?
いやいや、ニュース見たらニューイヤーの馬鹿騒ぎは相も変わらず全世界でやってるみたいだしフランスでも車燃えてたらしいね。けど、インスタの私のタイムラインは、シンプルで穏やかなんだよなぁ。
今書いてて新たな発見だこれ。
ともかくそんなだから、千年以上の文化・習慣・神事・流行の一切から一度切り離されてみてめちゃくちゃ清々しい体験をした私に対しても、その清々しさをまったく損なうことなく彼女らの新年のメッセージがすんなり入ってきた感じ。
俳諧は芭蕉、短歌は百人一首の時代が頂点と思っている私だから、古い文化はむしろ重んじている部類の人間のはずだから、正月文化丸ごとポイみたいなこの体験は、非常に自分でも不思議な感覚。
だからどうだということでなく、だから誰にどうしろということでもなく、純粋にこの不思議な初めての感覚を書き留めておいただけ。
これはいったい、どういうこった、って感じが正直なところ。
しかし嘘偽りなく、この何もしない正月の神聖さが至高であると今は感じている。
大晦日の深夜の太宰府天満宮とか、忘れたくない正月の思い出もある。
でも、今のこの静かな充足の中では少なくとも、もう二度と鏡餅にみかん載せるとかしたくないし、初詣客の映像をバックに雅楽とか聞きたくないし、キンキラの屏風とか見たくない、と感じてしまってる。
この先どうなるか知らないけど。
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