祈りや願掛けの効用はどこにあるか
ご存知の方はご存知なように私は無宗教だが無神論者ではない。
むしろ強力に神の存在に帰結しながら生きてそれで万事うまくいってる。
が、不思議なことに、神の万能を前提にモノを考えると、しばしば無神論的な行動論と一致する。
先に言っておくが、祈りは良い。願いも良い。
だがそれは神に何かを「変更してもらうため」に行うものではない。
自分を不幸と思っている人が神社に行って手を叩いて「幸せにしてください」と祈っても、いろいろな意味で現実とズレている。一周回って幸せになっちまうことはままあるけれどもね。少なくとも、方角とか作法とかそんなものには何の意味もない。こういうところ、無神論者と意見が一致するわけだが、何度も言うように私は神が存在する前提で生きているし話している。
神の万能性は、実は論理的に真理である。証明も可能だ。かつて別のブログで証明を物語にしたのだがそこは人生の岐路とともに閉鎖した。
中途半端な知性を振り回して神の万能の矛盾をついた気になって「はい論破ー」とか言ってるアホは痛々しいので、ほっとく。「神とは人間が作り出した概念だ」とか矮小な視野でチンケな理屈こねてる奴もな。ユダヤ人のくせに無神論者のお前とかな。あーほっとくのだった忘れてた。
ともかく、神は全知全能の前提で言えば、
神社に行こうが布団の中だろうが、祈ることも願をかけることも全てお見通し(だが全ての行動が決定論だと言ってるのではない、声に出して祈らない選択肢は常にあるのだが、人生のどこかでその願いを胸に抱くのはすでに知っているということ)。
祈りの内容も絵馬に書いたことも、そのずっと前から神はすでに「聴いている」。
そして神は、祈りや願いの結果行き着くところが、運命から大きく外れない限り、すでにそれを叶える方向で道を整えてくださっている。あとは本人がその道をどう気づき、どう進むのかを、楽しみに観察しておられる。
だから、「神様に願いを聴いてもらうためにこうしなさい」という作法の全ては、言葉通りには全て無意味である。
そこまで言っといて、でも祈りは良い、という理由は何か。
もうお分かりのように、祈りは自己の精神を一点に向ける意味で、その一点がアサッテの方角でない限りにおいて有効だということ。
だから人によっては「今年中に結婚したい」「今すぐ1億円欲しい」が全く無意味な願いであることは少なくないし、どんなにお金やわが身を削って祈りを強くしたところで神さまは一滴もそっちには導いてくれない。
神はそれでも、人に自力で幸せにはなってほしいので(それを見るのが神の楽しみなので)、馬鹿な願いであることに早く気づけるような「親切」をほどこしてくれることはよくある。
そこで「神は全然聴いてくれない」と絶望したり逆恨みしたりするのがどれだけアホかっちゅうことね。
ま、その結果ひるがえって無神論者になったという哀れな人も少なくないと察する(公言している恥ずかしい有名人もいる)。
だが、論理的にこの世を突き詰めようとして無神論的な前提で世界を真面目に再構築している人は、結果的に私と「〇〇は無意味」「〇〇は自分の精神のためには有効」という話で意見が合ってしまうことはよくあるわけ。






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